日常語の「ならば」は伴意(emtailment)に近いだろう、という仮説から、含意(implication)の定義を唐突と感じて納得できないという現象をある程度は説明できます。
「A ⇒ B」は、世界に関する、あるいは事実に関する記述です。「条件Aを満たすようなモノは必ず条件Bも満たす」という言明ですからね。
世界における事実を完全にシミュレートできる演繹系(約束と手順からなる機械仕掛け)があるならば*1、Aを仮定(前提)として入力すれば、いずれはBが結論として出力されるはずです。これを外から眺めて記述すると、A |- B だ、ということです。
この演繹系で演繹定理が成立しているなら、仮定なしで A→B を出力できるはずです。仮定なしの結論とは、(その演繹系にとっての)絶対的な真理ということですが、演繹定理のもとでは、相対的な(条件付き、仮定付きの)真理を、「〜という条件があるなら…」という形で絶対化できます。含意A→Bは、条件付き真理(留保された主張)を絶対的真理(断言された主張)の形にする構文的な道具ともいえますね。
伴意「A ⇒ B」により記述される“世界に関する言明”が、含意演算子→を含む単一の論理式で表現可能だ、ということの背景は(もし、上のような話の流れをたどるなら)全然やさしくありません。この「やさしくはない」行程をすっとばして天下りに含意を導入するなら、それはわかりっこない、と僕は思うのです。
もし、合理的で教育的な含意の導入/解説があったら、是非に知りたいですね。
*1:一般には、そんな演繹系はありませんけど。