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参照用 記事

悟らないでも分かりたい (過去編)

もう1月くらい前かな? 友人に「檜山は何をやりたがっているのだ?」といった質問を受けた。積極的に何かをやろうとしたりはしないのだけど、僕は、どうにもイヤーな感じを抱いていて、それを払拭したいとは思っている。(2006-03-25に書いた「合理性と非合理性」とも関係する。)

このイヤーな感じの説明を試みたい。僕が抱く不満・不快の背景には、個人的な過去の経験があるし、最近の(環境と自分の)事情も影響している。だから、過去編(今回)と現在編にわけて書く。


僕は元来、根性論や精神論を忌み嫌っている。「死ぬ気でやれ!」って、ほんとに死んでしまったらどう責任とるのだ? いや、これジョークじゃないよ。かつて、so-called“デスマーチ”で死人(多くは自殺)を出した事例はあるし、死なないまでも回復不能なまでに身体や精神を壊してしまった人は随分いるはずだ。

死人に口なしだし、ひどいダメージを受けた人はそんなことを思い出し語りたいとは思わないだろう、語る手段も機会も持たないかもしれない。僕自身もある程度の(最悪ではなかったと思うが)ダメージを受けた経験がある。自分のことを引き合いに出して語れるようになったのは比較的最近のことだ。とにかく、心身にひどいダメージを与えるようなことをやってはダメだよ。「鍛える」とか「成長のために」とかは、たいていは無知、誤解、口実だ。

「トレーニングのために過負荷状態を作り出すことが必要」だという事には合理的な根拠があると思う。その根拠に基づいたトレーニングメニューに文句を付ける気はない。そのトレーニングをやり抜くためにある種の“根性”が必要なことにも異論がない。が、僕の許容と同意は、メニューに基づいてコントロールされたトレーニングという文脈でのことだ。僕が(そしてたぶん多くの人が)経験した過負荷状態とは、そのようなものでは全くなかった。闇雲にガムシャラにひたすらに、しかし先が見えない強行軍に過ぎなかった。そんなことはやるべきではない。絶対に経験すべき/させるべきではない。

「仕事であれ勉強であれ、理性でコントロールされたプロセスを踏むべきだ」と、強く強く、強く思うようになったのは、そういう背景がある(それだけではなく、生来そういう傾向があったのも事実だろうが)。非合理なプロセスは、ほぼ間違いなく非効率的である。だから、クールに打算的であろうとすれば、やはり合理性へと導かれるのではないかと想像する。

しかし、喉元過ぎればナントヤラ、過去の苦しくも無意味な体験がいつのまにか美しい思い出に変容してしまうなんて現象がある。僕自身のなかでも過去はもはやリアリティが薄れた。しかし断固言っておくが「美しくもないし、有意義でもない、自慢の種にもならない」。たまに、「死ぬ思い」を武勇伝として語る輩がいる(信じられない行為だ!)が、オトギ話くらいに思ったほうがいい。

そうそう、誤解されないように付け加えておくが、同じ体験をしてもダメージを受けるかどうかにはものすごく個人差がある。危機的状況のなかでアドレナリン出まくりで、それが快感になってしまう人も実際にいそうだ。武勇伝を語るような人は、ほんとに英雄なのかも知れない。もともと非常にタフでストロングだったわけだ。が、傑出しているから英雄と呼ぶわけで、大部分の人は英雄ではない、そう、すべての人が英雄的能力を持つわけではないのだ -- そんな当たり前のことさえ忘れたような杜撰<ずさん>な観察や議論を僕は嫌っている。

というわけで、「鍛える」とか「育てる」とかの名目で、根性論や精神論を持ち出すことには、生理的ともいえる嫌悪感を感じる(ありていに言って、吐き気をもよおすってこと)。そして、躾や悟りも同様に嫌いなんだが -- 躾や悟りの話は現在編で。