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参照用 記事

悟らないでも分かりたい (現在編)

前回(過去編)、僕は根性論や精神論が嫌いだ、と言った。そして、躾<しつけ>や悟りも嫌い。非合理や無根拠なのに強制力/影響力をもつような存在を憎んでいる、ってことだね。

もうちょっと過去にこだわってみる

さて、過去編の話を少し引っ張るのだけど、「死ぬ気でがんばれ!」が常に非合理/無根拠かというと、まー、そうとも言い切れない。それが非効率的であり、目的達成に寄与することがないのが分かっていてもなお、「死ぬ気でがんばる」ような事態もありえる。つまり、がんばる目的(あるいは“死ぬ”目的)が何かを成し遂げることではなくなっている事態。別な目的に対してなら、死ぬ気でがんばる行為がふさわしいという合理的な(?)判断がされている、そんな事態。

その別な目的とは、たとえば謝罪だね。「誠意を見せる」というほうがピッタリかもしれない。あっさり「ごめんなさい、ダメです、できません」では謝罪にならないから、「これだけやってもなお、ダメ、できない」を示すために、もう明らかに達成不可能なことを無理にやり続ける、といったこと。これは土下座と同じ発想。冷静な顔して理路整然と「ごめんなさい、ダメです、できません」というのは、多くの場合は謝罪として通用しないのですよ(これ、僕の実感)。どす黒い顔、頬がこけて、点滴の一本もぶち込んで、悲痛な声を絞り出してゴメンナサイ言わないと許してくれない。

まとめてみれば(まとめたくないけど)、謝罪とは次のことを指すようだ。

  1. 土下座
  2. 泣く
  3. 憔悴
  4. 狼狽
  5. 切々と訴える

でもね、冷静に説明しても土下座しても、事態が変わるわけじゃない。ダメなもんはダメでしょう。ようするに感情の問題なのだけど、許してもらうには感情に訴えるしかないから、上記のような行為、あるいは人柱なり生け贄なり手みやげなりが必要になるのでしょう。 -- そういうのはもう止めたほうがいいよなー。止めて欲しい。止めたい。

悟らないでも分かりたい -- これ本題

それで、躾と悟りの話に入る。これは、教育とかトレーニングの文脈でのこと。そういう場面で、「問答無用」「説明不可能」な押しつけや要求をするなよ、ってことね。

誤解されると困るから急いで付け加えるが、経験により獲得される技量のようなものを否定しているんじゃないですよ。経験しなきゃわからないってことは多いから。でもそのときでも、どのような経験をどのような順序で積んでいくか、経験により何を獲得できるのか、おおよその説明は事前にできるでしょ、「問答無用」「説明不可能」じゃないはず。教条化/徳目化した能書きや説教はウンザリ。

あるスキルを身につけたり、なにかを知るために、神秘的体験を経由しなきゃならないのもイヤだね。ナントカ道とかカントカ術では、そういう方法以外に獲得手段がないのかもしれないが、科学技術とその周辺の領域では、言語化不可能な直接体験に頼らないでもイケると信じたい。

数理的基盤の上に立つ

話が少し飛躍するのだけど、僕が圏論や論理(モデル論、証明論)に期待をかけるのは、それが、躾や悟りを排除した体系や手法の基盤となりえると思っているから。これはソフトウェアに関わる話をしているのだけど、科学/工学の常として数理的基盤を持つのは当然だろう、と、そう考える人には特に何も言うことはないのだけど、「根性論」、「精神論」、「問答無用」、「説明不可能」、「いわく言い難し」、「以心伝心」、「躾」、「悟り」からホントに自由になっているのだろうか? -- そうではないという観察と認識がイヤーな感じをもたらす。

では僕が悲観的かというとそうでもない。10年単位で考えても1年単位で考えても、いい方向に向かっているように思える。だが、その正方向への進行に対して影のようにまとわりつく“非合理への誘惑”や“無根拠への回帰”が気になる、こいつらを振り切りたい、という気分なんです。

でまー、結局、「檜山は何をやりたがっているのだ?」という友人の質問に答えるなら、“非合理への誘惑”や“無根拠への回帰”にあらがって、明晰(むしろ明白か)にできる可能性があるものは明晰にしたい。そして、その上で何かを語りたい。ってことです。それができるかどかは、もちろん、まったくの別問題だけど。