論理(学)の話を少し。ここでいう論理(ロジック)は、記号論理学、形式的論理学、数学的論理学などと呼ばれる分野のことです。この意味での論理を学んだからといって、通常の(世間的な)意味での“論理的な人”になれることはまったく保証できません。
こころがまえ五箇条
さて、記号論理学を受け入れる気持ちになるには、とりあえず、次のようなことを心にとめるべきかと。
- 無意味な記号の無意味な操作を認める。
- しかし、記号と操作に意味を与えられることも認める。
- 記号/操作の意味付与(解釈)には、なんらかの“世界”が必要なことを知る。
- (現実の、または架空の)とある“世界”で、なにごとかが“正しい”かどうかの判断(judgement)ができると信じる。
- 意味・解釈を根拠とした記号操作も、意味を剥<は>ぎ取って「無意味な記号の無意味な操作」だとみなせることを知る。
機械的な記号操作
無意味な記号の無意味な操作は味気ないのですが、割り切ってある程度は練習するしかないと思います。掛け算九九を暗誦<あんしょう>したり、筆算のやり方を憶えるのと同じ。例えば、‘A∧B⊃C’というワケワカラン記号列を、とある機械的規則で変形すると、別なワケワカラン記号列‘¬A∨¬B∨C’になる、というようなことです。
実際には、論理計算も算数の計算も意味を持ちますが、いちいち意味(つまり、とある世界における解釈、対応事物)に言及しないでアルゴリズム*1として操作できることが重要。アルゴリズムがあるということは、コンピュータ上で動く記号処理プログラムで論理計算ができることになります。現実にそういうプログラムはあるし、論理計算のシステムをある種のプログラム(または専用コンピュータ)とみなすことはとても良い考えです。
論理的な記号処理を行うログラムの挙動や能力を、我々人間は云々<うんぬん>することができます。それは論理系に関するメタな議論・考察です。論理を学ぶある段階では、自分自身が記号処理プログラムになって機械的な操作を手でする練習をしますけど、次の段階では、そのような処理/操作を外から観測する立場になります。この立場の切り替えができないとチト辛いですよ。
命題の意味や真理性
たしかタルスキーだったと思いますが、次のようなことを言っています。
- 雪が白いが正しいのは、雪が白いときである。
なんだかバカみたいですが、意味付与とは本質的にこういうことなんだと思います。もう少し事情がハッキリするように鉤括弧を使って書き直してみます。
- 「雪が白い」が正しいのは、雪が白いときである。
鉤括弧で括られた「雪が白い」は命題であり、外の“地の文”が命題の意味や真理性を記述・主張しているとみなすのです。しかし、命題も地の文も日本語なので混乱しがちです。
- "snow is white"が正しいのは、雪が白いときである。
これならどうでしょう。あるいはもっと記号的にして:
- white(Snow) が正しいのは、雪が白いときである。
いやいや、いっそ:
- kkx(Ψ2) が正しいのは、雪が白いときである。
- 「ホゲペピー・ポバコヴ(とある星の言葉)」が正しいのは、雪が白いときである。
いずれにしても、何か記号列(項、式、文などと呼ばれるのですが)に意味を与えるときは、意味付与の規則が必要です。その規則は“地の文”として誰でも理解可能な言葉で述べられなくてはなりません。また、命題の真理性には解釈の場としての“世界”が必要です。例えば、とある星では黄色い雪が降るのであれば*2「ホゲペピー・ポバコヴ」は正しくない(偽の)命題になります。
論理に出現する2つのメタ記号
∧(かつ)、∨(または)、¬(でない;否定)などの記号は論理式を構成する素材として使います。命題を表現するために、これらの記号を使うことから記号論理学という呼び名も生まれるのですが、それとは別に、|- と |=という2つの記号を紹介しましょう。この2つの記号は、∧、∨、¬達とは性格も用途も異なります。
記号|-、|= 自体はそれぞれターンスタイル、ダブルターンスタイルと呼ばれます(→「ターンスタイルって知っている?」)。おおざっぱに言えば、「|- …」も「|= …」も、「…は正しい」という意味です。ですが、「|- …」は機械的操作に基づく正しさ、「|= …」は世界の事物との比較による正しさです。
例えば、‘∀x.∀y.[(x*x + y*y = 0)⊃(x = 0)∧(y = 0)]’という記号列を、あるアルゴリズムに従った機械的な操作で導けたときは、
- |- ∀x.∀y.[(x*x + y*y = 0)⊃(x = 0)∧(y = 0)]
と書きます。一方、記号列を適切に解釈した上で、とある世界の事実と比較して、記号列が表す命題が確かに成立しているときは、
- |= ∀x.∀y.[(x*x + y*y = 0)⊃(x = 0)∧(y = 0)]
と書きます。
神様を信じる
少し考えてみると、記号|-、|= が表す主張は、極めて頼りない(根拠が確実でない)ことが分かります。というのも、αがなにか記号列であるとき、|- α とか |= α と、誰が自信を持って言えるるのでしょうか? 具体的に与えられたαに対しての |- α なら、ときに手順を具体的に示して断言できるでしょうが、一般論として |- α、|= α、それらの否定を断言するのは困難です。
となると、|- α とか |= α の主張をすることが無意味なのではないか、と不安になります。ここで慎重になるのは、ひょっとして“まっとうな論理的な態度”なのかもしれません。が、とりあえずは、|- α や |= α は神様の立場からの言明なのだ、と割り切ったほうが疲れないで済むと思います。
無限の能力を持つ神様なら、どんな記号列αが与えられようと、|- αかそうでないか、|= αかそうでないかを判断できるだろう、ということです。ですから、記号 |- や |= を含む言明も、神様なら真偽を知っているし、人間でもその真偽の一部なら知り得るかもしれません。
神様(超越的な能力)を一切出さないで、人間の能力だけでどこまで知り得るか/判断できるか? と考えるのも面白いのかもしれませんが、たいへんな注意力と忍耐を要するようで、モノグサでヘタレな僕には向きません。僕は日常的にはほぼ無神論者なのだけど、ご都合主義で超越的な能力に頼ります。
やっぱり気持ちが問題かも
冒頭で「記号論理学を受け入れる気持ちになるには」と書いたし、最後のほうは「神様を信じよう」になっちゃったね、こりゃ精神論かい。んー、実際のところ、論理、特に|=(充足、妥当性)を扱うモデル論あたりは、心理的な抵抗感があると思うのですよ(僕はある)。
人間は、意味を一切考えない機械にもなれないし、万能の神様にもなれない。にもかかわらず、論理では“無意味な記号操作”とか”すべて世界のあらゆる事物”とかを扱うわけで、人間/機械/神様の立場を行ったり来たりするようなココロの持ちようが要求されるみたいなんです。
関連する記事:
*1:セミアルゴリズムというほうが正確でしょうか?→http://d.hatena.ne.jp/m-hiyama/20060223/1140652948、http://d.hatena.ne.jp/m-hiyama/20060223/1140656078
*2:「雪」、「白い」、「黄色い」などの概念は一致しているとして。