このブログの更新は Twitterアカウント @m_hiyama で通知されます。
Follow @m_hiyama

メールでのご連絡は hiyama{at}chimaira{dot}org まで。

はじめてのメールはスパムと判定されることがあります。最初は、信頼されているドメインから差し障りのない文面を送っていただけると、スパムと判定されにくいと思います。

参照用 記事

不快感をもよおす衒学的文章とはどんなものか

http://d.hatena.ne.jp/m-hiyama/20100225#c1267490716

何人かがご指摘なさっているように「郡司さんは真剣なんだ/真面目なんだ」を否定する気は全然ありません(そうなんだろうと思っています)。であるなら、どうしてデタラメを書くんでしょうか? デタラメという表現方法でしか真意を語れないのでしょうか? -- 僕はそんなことはないと思います。痒いところに手が届かないような語り口でも、デタラメよりは効率的なコミュニケーション方法はあるはず。

以前、bonotakeさんもおっしゃっていた事ですが、「それで誰が幸せになるのか?」です。郡司さんになんらかの「真意」があるにしても、晦渋で難解、デタラメな用語法・推論では「真意」の理解者を減らすだけだろうし、「こけおどしの装飾」との評価もいたしかたないでしょう。

と、なんか「親切な忠告」風なことを書いてしまいましたが、実際は感情的に不快感/ムカツキをおぼえるのですが、この不快感の正体はまた別に書くかもしれません。

最後の部分「この不快感の正体」について説明してみよう、と。感情の話だから、当然に論理的じゃありません。

以前 http://d.hatena.ne.jp/m-hiyama/20100205#c1265354294 にて、id:nucさんが「数学が大学の教養程度に分かっていれば、このように見える、という喩えはいいかもしれません。」という例を書いてくれました。nucさんの「お茶の飲み方」の例は、余りにも面白くてただゲラゲラ笑ってしまうので、不快感の説明にはなりません。

このブログ「キマイラ飼育記」の読者には、プログラミング言語のユーザーや好き者が比較的多そうなんで、そういう比喩にします。例えば、プログラミング言語Rubyを持ち上げて、Schemeをこき下ろす次のような文章があったとしましょう。

Rubyは、純粋オブジェクト指向と評されるHaskellの直系と遇されるのが常だが、私の見解は、むしろマクロアセンブラにより近い、というものなのだ。Rubyにおいて継続すなわちcontinuationの使用はもはや常態とも言えるが、一方のSchemeでは、Algol的な例外機構の残滓により、Unixシグナルに留まっている。

制御構造のみならず、データ構造の観点からも、RubySchemeよりはるかにポストモダンと言えるだろう。淵源へと遡れば、マクロアセンブラPascalの対立の図式へと導かれる。私は、Schemeのデータ構造は、唾棄すべき要因を含むという思いを抱く誘惑に抗いかねるのだ。そうであるならば、民主党政権交代は失敗であったと結論せざるを得ない。

もとより、アインシュタイン相対性理論からも、明らかにRubyに軍配が上がるだろう。SchemeSchemeたらしめているブロックスコープ構造にしろ、今となっては決して珍しいものとは言えない。いやむしろ、真に純粋関数型を指向するなら、Schemeへの共用体の導入をこそ今真摯に検討すべきなのだ。演算子オーバーロードですべての問題が解決するわけではない。この実存的な課題をただ黙殺しているSchemeに、私は異議を申し立てる。

意味アリゲだが実はまったく無意味な文章だから無視するという選択肢が健全かつ多数派でしょうが、もし最後まで読んでしまうと、Schemeユーザーはなんか不快感をおぼえませんか? Rubyユーザーにしろあんまりイイ気持ちはしないでしょう。言っている内容の真偽判断はまったくできない(文字どおりのナンセンスだ)けど、それでも「ナニ言ってやがるんだ、コイツは」みたいな感情を抱きませんかね(主観的なもんだから、「人によりけり」でしょうが)。

僕が郡司ペギオ-幸夫さんの書いたものを読んで感じる不快感は、RubySchemeのユーザーが上の文章を読んで感じる「ナニ言ってやがるんだ」感みたいなもの、と言えば多少は伝わるでしょうか。

[追記]

郡司さんが書いた内容の間違いやデタラメさ加減に対する指摘や批判は、次の記事を基点にリンクをたどれます。