僕らは未来を創らなくてはならない。
一般論ではなく、技術的なことに話を限ろう。未来は、未来の技術は、今と同じではなくより良いものであるべきだ。だから、未来のためにイノベーションが必要だ。イノベーションにはアイディアが必要だ。アイディアには知識が必要だ。知識は過去に蓄積された歴史的な産物。つまり、未来のために蓄積された過去が必要になるのだ。
「アイディアが閃く」と言ったりする。確かに、突然にイイコトを思いつくことはあるだろう。でも、それは真空中から生まれるものじゃない。無意識のうちに行われた知識の組み合わせの結果が、あるとき顕在化するのだろう。閃いたアイディアを形にするにも知識が必要だ。スキルも必要だ。
知識は過去から学び、スキルはトレーニングで得られる。天から降ってこない。一定の期間なら、何もしないでアイディアが天から降ってくるのを待ってみるのもいいと思う。これは意義がある。なぜなら、天から降ってこないことを学習できるからだ。だが、一定の期間を過ぎて天からの贈り物を待っていると手遅れになる。
中年に近くなって(三十代後半)、「何の基盤もない自分には何のアイディアも出せない」と気が付いた僕は手遅れの人だったかもしれない。が、そう考えると何もする気力がなくなるから、ギリギリセーフだったと考えることにしている。
軽薄であてにならない自分の見識(?)や直感は捨て、わけのわからない現在は無視して、確実な過去に遡ることにした。歴史そのものはどうでもいい(というか、歴史は苦手だ)。確実性が高い理論や手法は、ある程度の年月を生き続けるという事実があるだけだ。
僕は、圏論をソフトウェアの設計や実装に活かそうと数年前から言っている(1990年代からそう考えた)。すると、「檜山さんは新しいこと御存知ですね、情報が早いなー」みたいな反応をされて、返答に窮する。
あのね、圏論の基礎概念は1940年代には揃っていたんですけど。ジイサマの僕でさえ生まれてねーよ。圏論のランドマークである「米田の補題」を米田さんが発表したのは1954年、半世紀以上も前。今、僕らがなんか「高級そうだ」と思っている概念、例えばモナドの複合可能性の基準を与えるベックの分配法則でも1960年代には知られていた。
うつろいゆく現在は刺激にはなる。けど、基盤のないところに刺激だけ与えられてもアイディアは生まれない。身も蓋もないことを言ってしまうと、僕ら凡人には、多少の基盤があってもアイディアなんて生み出せない。たまに「おおー、閃いた」とか思っても、何十年も前から知られていた事実の再発見だったりする。いや、再発見でさえないかもしれない。教科書や論文で読んだ内容が記憶の底に沈んでいて、それが浮上しただけだったりする。
なんか情けない話になってしまったけど、僕は悲観的でも虚無的でもない。古い知識の新しい組み合わせ、ほんのちょっとだけでも新しい組み合わせにも意義があると思っている。それを「アイディア」と呼んでもさしつかえないと思っている。本質的に新しい前進は天才に任せることにして、些細な工夫でも未来を創る小さな素材にはなる。そんな小さな素材でさえ真空からは生まれない、天から降ってこない。刺激だけからは形をなさない。
僕らは未来を創らなくてはならない。そして、未来のために過去が必要だ