「ユークリッド空間」という言葉はよく使われますが、色々な意味を持つ多義語です。その多義性について考えてみます。
内容:
追記があります。→「奇妙なユークリッド空間とデカルト構造」
距離空間としてのユークリッド空間とデカルト空間
nLabの"Euclidean space"のエントリーを見ると、ユークリッド空間は次のように定義されています。
In the strict sense of the word, Euclidean space En of dimension n is, up to isometry, the metric space whose underlying set is the Cartesian space Rn and whose distance function d is given by the Euclidean norm.
厳密に(あるいは狭い意味で)言葉を使うなら、n次元のユークリッド空間Enとは、その台集合がデカルト空間Rnであり、その距離がユークリッドノルムで与えられる距離空間と等長同型な距離空間のことである。
これこそがユークリッド空間だ、ということではなくて、狭い意味で「ユークリッド空間」が使われるときはこんなだろう、ということです。この定義のなかでデカルト空間(Cartesian space)という言葉が出てきますが、デカルト空間の定義は:
A Cartesian space is a finite Cartesian product of the real line R with itself. Hence, a Cartesian space has the form Rn where n is some natural number (possibly zero).
デカルト空間は、実数直線R(のコピー)を有限個直積したものである。したがって、デカルト空間は、ある自然数(ゼロでもよい)nに対してRnの形をしている。
デカルト空間のことをユークリッド空間と呼んでしまうことも多いと思います。つまり、広義のユークリッド空間は、Rn、またはRnと同型な集合/空間のことでしょう。
一般にnLabの記述は、圏論を使ってうまく整理してあることが多いのですが、ユークリッド空間/デカルト空間に関してはあまりスッキリしませんね。狭い意味の実例(距離空間)と広い意味の一般概念(デカルト空間)を取り上げているだけで、「ユークリッド空間」のその他の用法は説明していません。
具象圏における標準ユークリッド対象
圏Cが、集合圏Setへの忠実関手 U:C→Set を持つとき、(C, U)を具象圏(concrete category)と呼びます。Uは忘却関手と言ってもいいですが、忘却関手の定義がハッキリしないので、ここでは台集合関手(underlying-set functor)と呼びます。以下、単に具象圏Cと言ったら、Cには台集合関手が付属しているとします。
台集合関手が存在していることから、Cの対象は集合に構造を載せたものと解釈できます。射は構造を保存する写像です。よく知られた圏、例えばOrd(順序集合の圏)、Top(位相空間の圏)、Grp(群の圏)、FdVectR(R上の有限次元ベクトル空間の圏)などは具象圏です。
{Rn | n = 0, 1, 2, ...}は可算個の集合からなる集まりですが、これは、|Set| = Obj(Set) の部分集合となります。Cが具象圏のとき、台集合関手 U:C→Set があるので、自然数nごとに次の集まり(小さな集合とは限らない)があります。
- U-1(Rn) = {X∈|C| | U(X) = Rn}
Cが標準ユークリッド対象(standard Euclidean objects)を持つとは次のことだとします。
- 任意の自然数nに対して、U-1(Rn)が空ではない。
- 各nごとに、U-1(Rn)に属する対象が1つだけ特定されている。
各nごとに特定されてた対象をEnCと書いて、Cの標準ユークリッド対象と呼びましょう。文脈から明らかなら、EnCを単にEnと書きます。つまり、E(-):N→|C| という単射があります。標準ユークリッド対象はC内に可算個存在します。
どうやっても標準ユークリッド対象を持てない具象圏もあります。例えば、有限群の圏をFinGrpとすると、U-1(Rn)は空になってしまいます。C内に、台集合がRnである構造が存在する必要があります。
標準ユークリッド対象の「標準」が何であるかを一般的に規定することは出来ませんが、個々の典型的ケースにおいては、常識的な標準構造を定義できます。
- R上の有限次元ベクトル空間の圏FdVectRの場合: (普通の意味での)標準的なベクトル空間構造。
- R上の有限次元ヒルベルト(内積ベクトル)空間の圏FdHilbRの場合: 内積は次のように定義する。
- 距離空間の圏Metの場合: 距離は次のように定義する。
- 位相空間の圏Topの場合: 上記の距離から定義される位相を考える。
- 可測空間の圏Measの場合: 上記の位相から決まるボレル集合代数を考える。
- なめらかな多様体の圏C∞Manの場合: (普通の意味での)標準的ななめらかな構造を考える。
これらの圏においては、標準ユークリッド対象En(n = 0, 1, 2, ...)が決まるので、標準ユークリッド対象を持つ圏になります。
ユークリッド対象
具象圏Cが標準ユークリッド対象を持つとします。標準ユークリッド対象は、n = 0, 1, 2, ... でインデックスされた可算個しかありません。圏論では、同型なものを区別する必要はないので、(一般の)ユークリッド対象(Euclidean object)を次のように定義します。
- X∈|C| がユークリッド対象であるとは、あるnに対して X En in C であること。
- Euc(C) = {X∈|C| | ∃n∈N.(X En) }
集合圏Setにおいて、En = Rn として標準ユークリッド対象を定めて、一般のユークリッド対象を考えると、あんまり面白くない結果になります。集合の同型は基数で決まるので、Rと同じ基数を持つ全ての集合がSetのユークリッド対象になります。Setのユークリッド対象では次元は意味を持ちません。
R上の有限次元ベクトル空間の圏FdVectRでは、すべての対象がユークリッド対象になります。どんな有限次元ベクトル空間も適当なEnと同型になるからです。同様に、R上の有限次元ヒルベルト空間の圏FdHilbRでも、すべての対象がユークリッド対象です。
距離空間の圏Met、位相空間の圏Top、可測空間の圏Meas、なめらかな多様体の圏C∞Manでは、ユークリッド対象ではない対象がたくさんあり、ユークリッド対象は扱いやすい特別な対象という位置付けになります。
ユークリッド空間とは
集合圏のようなイレギュラーなケースを排除するために、標準ユークリッド対象を持つ具象圏Cに次の条件を付けるといいでしょう。
- n ≠ m なら、EnとEmはC内で同型ではない。
先に出した事例で、集合圏以外はすべてこの条件を満たします。
ユークリッド対象は、その対象が所属する圏ごとに、それらしい呼び名で呼ばれるでしょう。例えば、ユークリッド・ベクトル空間、ユークリッド位相空間、ユークリッド多様体、のように。nLabの狭義のユークリッド空間は、圏Met(ただし、同型は等長同型とする)におけるユークリッド対象、つまりユークリッド距離空間です。
「ユークリッド空間」が多義的なのは、圏ごとにユークリッド対象があるからです。異なる圏のユークリッド対象の実体は違うでしょう。共通していることは、Rnを台集合として、標準的(standard, canonical)な構造と同型な構造を持つことです。
追記があります。→「奇妙なユークリッド空間とデカルト構造」