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参照用 記事

『圏論による量子計算と論理』はエキサイティングだ (1/2)

共立出版の大谷さんに書籍『圏論による量子計算と論理』を送っていただきました。ありがとうございます。ざっと“眺めた”(一部分は“読んだ”)ので、感想だのナニヤラを記します。2回に分けた前編(1/2)です。今回は本の内容について、次回は内容以外について述べます。

内容:

この記事の節タイトルは、『圏論による量子計算と論理』の章タイトルではありません。

読むけど読まない人

圏論による量子計算と論理』がどんな本かすぐ知りたい人次節に飛べ → ; この節は私的雑談。

僕は、割と本を読むほうかと思うのですが、本に関するブログ記事はほとんど書きません。いま、「本を読む」と言いましたが、実際はチャンと読むことなんてなくて、「本の一部を適宜利用する」だけです。なので、本についてナニゴトかを書くのはおこがましい、著者・関係者に失礼かな、と感じるのです。このブログ始めて14年目になりますが、書評(つうか読書感想文)記事は5回しか書いてません。

  1. 書評:理工系のための トポロジー・圏論・微分幾何 2007年
  2. 清水明著『量子論の基礎』はいい本だ 2008年
  3. 山本陽平さんの『Webを支える技術』はWeb技術者に必携だな 2010年
  4. 『抽象によるソフトウェア設計』とAlloy、第一印象報告 2011年
  5. 渡辺竜・著『レスポンシブWebデザイン』はとても良い本だ 2013年

理工系のための トポロジー・圏論・微分幾何』は第5章以外は斜め読みです。それでも随分と読んだほうで、ジョニー(id:hiroki_f)に推奨されて買った本『量子論の基礎』については、

まだ読んでないけど、これはいい本です。
[...sinip...]
A5判(20.8x14.8x1.8cm)288(内容264)ページは非常に扱いやすいサイズです。もちろん、ハードカバーなんてバカなことはなくて、ソフトカバーです。ソフトカバーのなかでもほんとにソフトな作りで取り回しが楽。いいですねぇ。カバーに光沢加工がしてあって撥水性があるので、今日みたいな雨の日に少し濡らしたくらいでは大丈夫。コーヒーをこぼしたりしても少量なら問題ないでしょう。

本の形状・形態しか書いてません(なんせ読んでないから)。僕にとって形状・形態は大きな評価ポイントなんです。デジタルデータに比べて紙の書籍の際立った特徴は「物体である」ことです。物体としての機能性は気になるところです。

Webを支える技術』に関しても、

『Webを支える技術』は版型もコンパクトだし、取り扱いがとても楽です。付録・索引も充実しているので、ハンドブック的に、いつでも手元に置きたい本です。

付録・索引の充実 -- これはホントに重要。紙の本の困るところは、ハイパーリンクや文字列検索が使えないことです。それを補う機能としての索引は必須! 索引がない(あるいは、ないに等しいほど貧弱な)専門書は買うに値しないと思っています。

抽象によるソフトウェア設計』に関する記事を書いたとき、本は「序章4ページ + 付録2.5ページ」しかマトモに読んでなくて、ソフトウェアの使用記が大部分でした。ここでも僕の評価ポイントを繰り返しています。

  • 紙の本は、モノとしての形態がすごく気になるのですが、その点では使い勝手がいいです。
  • 付録が便利でとても助かります(つーか、主に付録を読んでるんですが)。
  • 訳語一覧があるのも好感が持てます。欲をいえば、もう少し語数が多いと良かったかな。例えば、「基本型」は訳語一覧には載ってません; 「基本」と訳す言葉に base, basic, primitive, atomic, ground, fundamental とかありますからね、モトを知りたい。

レスポンシブWebデザイン』は、全320ページ中176ページ、つまり半分以上読んだので得意になって記事を書きました。門外漢で飽きっぽい僕でも半分までは読める本て素晴らしいな、ってことですね。

毎度こんな感じなんですが、今回の『圏論による量子計算と論理』も、第4章から読み始めて、必要に応じて前の章を参照し、第5章で「はぁー、むずかしいな、これ」とかひとりごつってるのが現時点の状況(イマココ)です。

どんな本なの

タイトル「圏論による量子計算と論理」が、本書の内容を端的に表していると思います。

圏論による量子計算のモデルと論理

圏論による量子計算のモデルと論理

コンピュータは電子機器なので、根源的な自然法則としての量子物理に強く依存した製造物です。しかし、プログラミングのレベルで量子物理を意識することはなかったですよね; 今までは。今後、量子物理特有な現象をプログラミングのレベルで利用するとなると、「プログラマにとっての量子物理 = 量子計算論」が必要になります。計算がどのように為されるかを云々するとき、当然に論理を使います。今までは、計算の論理*1古典論理(または直観主義論理)で十分でしたが、量子現象/量子計算に関わる論理は古典論理とはどうも異なるようです。量子を扱うための非古典論理が必要なんでしょう。

クリス・ヒューネン〈Chris Heunen〉のこの本は、量子計算論とそれに関わる論理を基礎的〈foundational〉な立場から解説しています。具体的な量子アルゴリズムや応用事例は少数しか載ってません。紙幅のほとんどを基礎に費やしているからです。基礎的であることは易しいことを意味しません。実際、この本はだいぶ難しい本だと思います。だけど、(適宜他の文献なども参照しながら)読み進めるなら、とてもシッカリとした認識と見識を得られます。

チャンと理解するには物理の知識が必要なんでしょうが、僕みたいに物理に無知な人でもなんとか読み進められます。著者はセフルコンテインド〈自己充足的〉になるように努力してますが、後ろのほう(第5章)は、関数解析C*〈C-star algebra〉の知識が若干要るので、この本だけではキビシイかも。僕は、『作用素環入門 I』([asin:4007305943]*2を引っ張り出してきました。

本書『圏論による量子計算と論理』の構成は次のようです。

  • 第1章 はじめに (10p)
  • 第2章 テンソル積と双積 (44p)
  • 第3章 ダガー圏 (64p)
  • 第4章 ダガー核論理 (52p)
  • 第5章 ボーア化 (52p)

「はじめに」は導入と概要紹介です。2,3章が線形代数、4,5章が論理の話ですね。第2章は内積を考えない線形代数、第3章は内積付きの線形代数です。第4章は、ベクトル空間の部分空間束を論理的対象と考えての述語論理、第5章は状態空間と観測量を扱う論理です。こう書くと、オーソドックスなコースのように思えるかも知れませんが、いやいやっ、並の教科書とは違いまっせ、徹底的に圏論的〈カテゴリカル〉で公理的です。圏論線形代数圏論論理のテキストなのです。次節以降でもう少し詳しく内容を紹介しますけどね。

時間がない人は、最後の節に飛べ →

以下この記事では、『圏論による量子計算と論理』を「ヒューネン本」とも呼びます。翻訳日本語本であることを強調したいときは「ヒューネン/川辺本」とします。僕が通常使っている用語とヒューネン/川辺本の用語が違うときは、「檜山の用語《ヒューネン/川辺本の用語》」という書き方で表すことにします。

第2章と第3章:圏論線形代数と埋め込みの諸相

圏論線形代数圏論的論理も、僕自身が割と長い期間興味を持ち続けてきたトピックなので、ヒューネン本の直接的内容だけではなくて、周辺事項(「余計な事」とも言う)も色々書きます。本書に刺激されて、10年ほど前の記憶や興味が呼び覚まされました。それらをもう一度掘り起こそうという意図もあります。なので、檜山の記憶と連想の話がだいぶ入ります、あしからず。

本書の第2章「テンソル積と双積」と第3章「ダガー圏」は圏論線形代数の解説です。圏論線形代数というと、アーベル圏を思い浮かべる人が多いでしょう。アーベル圏は、圏論的・公理的に定義される圏(の種別)ですが、とある環(非可換かも知れない)の上の加群の圏だと思っていいものです。なぜ「思っていい」のでしょうか? 「抽象的なアーベル圏を、具体的な加群の圏に埋め込めるよ」と主張するフレイド/ミッチェルの埋め込み定理〈Freyd-Mitchell embedding theorem〉があります。この埋め込み定理が「思っていい」根拠であり、アーベル圏の理論の中核的な結果です。

ヒューネン本はアーベル圏を扱っているわけではありません。ヒューネンは、扱っている圏にカチッとした名前を与えてないのですが*3、「有限双積をもつ圏」*4と「有限双積をもつモノイダル圏*5」が(内積がない)線形代数で扱う圏です。このブログ内ではそれぞれ、半加法圏テンソル半加法圏と呼んでいた圏です。第3章では、ダガー圏とその変種が登場します。ダガーは、内積をシミュレートする仕掛けです。

アーベル圏が最初から足し算・引き算を仮定しているのに対して、有限双積をもつ圏は足し算だけを仮定します。また、アーベル圏はホモロジー代数を意識していて、完全列がやたらに出てくるのですが、ヒューネン本では完全列/完全性に注目してません。今言った「引き算」と「完全列」は、僕がアーベル圏を敬遠する理由でした。計算科学への応用上は邪魔になる前提「引き算」「完全列」を外している点で、ヒューネンが扱っている圏論線形代数は、より広範で実務的なものだと感じます。

とまー、アーベル圏とはだいぶ違った様相の“線形代数の圏”をヒューネンは扱っているのですが、大枠において、あるいは精神においてはフレイド/ミッチェル・スタイルを踏襲しています。つまり、抽象的に与えられた圏を具体的な圏に埋め込むことにより、抽象的な定義の妥当性と、いざとなったら集合・写像として扱える安心感を担保しています。

埋め込みに使うテクニックをザッと見ておきましょう。

CのホムセットをC(X, Y)と書きます。A∈|C| を固定して、C(A, -)を考えると、CSet という共変関手ができます。このC(A, -)を、Aによる共変主表現〈covariant principal representation〉*6または共変ホム関手〈covariant hom-functor〉と呼びます。C(-, A)ならば、共変が反変に変わります。(共変または反変)主表現と自然同型な(共変または反変)関手は表現可能関手〈representable functor〉で、Aがその表現対象〈representing object〉です。

対象Aによる共変主表現をA、反変主表現をAと僕は書きます。下付き・上付きの米〈コメ〉は米田の星です(「困った時の米田頼み、ご利益ツールズ // ラムダ記法と米田の星」参照)。固定していたAを動かした X|→X米田埋め込み〈Yoneda embedding〉

  • (-):C→[Cop, Set] ([-, -] は関手圏)

を与えます。そして、X|→X余米田埋め込み〈coYoneda embedding〉

  • (-):Cop→[C, Set] ([-, -] は関手圏)

を与えます。なので、固定したAに対する A, A は、(余)米田埋め込みの一点(特定対象)での値となります。

フレイド/ミッチェル・スタイルの埋め込みは、余米田埋め込み (-):Cop→[C, Set] の一点Pでの値Pですが、Pをうまく選んで P∈Obj([C, Set]) が埋め込み(充満忠実関手) P:CSet になるようにします。このとき、圏Cが備えている圏論的構造を利用して、Cの各ホムセットに集合論的構造を載せ*7、Pの値の圏を単なるSetではない圏、例えば左R-加群の圏RModに仕立てて、P:CRMod とするのです。

フレイド/ミッチェル・スタイルの埋め込みを構成する要点をまとめるなら:

  • Cの各ホムセットに構造を載せる、つまり豊饒化《豊穣化》して、主表現関手〈ホム関手〉が値をとる圏をSetからSet上の具象圏〈concrete category〉へと持ち上げる線形代数の場合は、Set上の具象圏として、環R上の左加群の圏RModをとる(左右はどうでもいいけど)。
  • Cの対象Pをうまく選んで、Pによる主表現関手〈ホム関手〉 P:CRMod が充満忠実関手になるようにする。充満忠実じゃなくても役に立つこともある。線形代数の場合は、Pとして射影分離子《射影的生成元》をとる。

米田埋め込みの場合は、全ての主表現〈ホム関手〉を総動員して、全体として“関手圏(前層の圏)への埋め込み”を構成します。個々の対象(いわば個人)の資質・能力に頼らず社会全体として埋め込みというミッションを遂行するのです。一方のフレイド/ミッチェル・スタイル埋め込みでは、極めて有能な代表者(対象)を一人(ひとつ)だけ選出し、その特定対象の資質・能力に依拠して“構造を持つ集合の圏への埋め込み”を構成します。当然に、有能な代表者の存在がキモになります。

「米田埋め込み vs. フレイド/ミッチェル・スタイル埋め込み」における「凡庸な民衆の総体 vs. 有能な一個人」の対比は、なんか面白なと思います(そこに余計な意味を見い出そうとしてはいけない!が)。有能な一個人(特別な対象)の存在を保証しているのは、圏全体が持つ圏論的構造です。その圏論的構造とは、双積や(双積とは別な)テンソル積、ダガー構造などです。

さて、ヒューネン本の第2章「テンソル積と双積」、第3章「ダガー圏」の読み方ですが; 章内で導入した様々な圏(有限双積をもつ圏/有限双積をもつ(対称)モノイダル圏/有限双積をもつ正則圏/コンパクト閉圏/前ヒルベルト圏/ヒルベルト圏)に対してフレイド/ミッチェル・スタイルの埋め込みを構成するストーリーだと思うと流れを見失わずに楽しく読めると思います。

抽象的圏の埋め込み先である具象圏は、加群*8の圏ですが、加群にはスカラー系(スカラーモノイド/スカラー半環/スカラー環/スカラー体)が付随します。最初にスカラー系を決めないと加群を作れないので、圏全体からスカラー系を絞り出す操作がまず必要です。圏のマクロ構造から(圏に比べると)ミクロなスカラー系が析出される様はなかなかに興味深く、ダガー構造に種々の条件を付けると、スカラー系が複素数体の部分体にまで特殊化されたりします。初見では茫漠とした圏から、カッキリしたお馴染みの構造が現出するのは驚きです。そう(so)、エキサイティング。

僕たちの2008-2009年

ヒューネン本では、圏論線形代数だけでなく圏論的論理も解説されています。その部分(後半)を紹介する前に、時間を遡った話をします。回り道をしたくない人次節に飛べ → ; この節は私的雑談。

ヒューネン本は、もともとはヒューネンの学位論文で、2009年に出版されています。その1年前、僕たち(檜山、たけをさん(id:bonotake)、酒井さん(id:msakai)、ジョニー(id:hiroki_f)、nucさん(id:nuc))は、「圏論と量子」の話題でちょいと盛り上がっていました。

ちょうど10年前のことです。手分けして論文を読んだり、ブログエントリーを上げたりしています。

この頃読もうとしていた著者は、アブラムスキー〈Samson Abramsky〉、クック〈Bob Coecke〉、バヴロヴィック《パブロビ》(Dusko Pavlovic)、アルテンキルヒ〈Thorsten Altenkirch〉、セリンガー〈Peter Selinger〉あたりかな。当時(今でもだけど)、圏論と量子に関して包括的イメージを持つことは出来ず、摘み食いして面白がっていただけでした。量子テレポーテーションを中心とするアワブームは、お盆前後の3週間ほどで沈静化しました(「飽きた」とも言う)。

でも、一年後の8月にも、関連記事は書いてますよ。うっすらと興味は続いていたのです。

2008年以前も(以後も)、ボブ・クックのお絵描き量子論はちょくちょく紹介してます。

ヒューネン本の主題のひとつであるダガー・コンパクト閉圏について言えば、当初アブラムスキー/クックは強コンパクト閉圏〈strongly compact closed category〉と呼んでいて、2005年にセリンガーがダガー・コンパクト閉圏へと改名したものです*9。古ーい短い記事「Dagger compact closed category」でそのことに言及しています。

話は変わって2009年春に、ジョニーが『層・圏・トポス』の勉強会を始めました。老婆心から書いた記事が、

竹内さんはゲーデルも一目置いたほどの世界的な論理学者(ロジシャン)ですが、その書きっぷりは粗っぽくてエエカゲンなところがあります(そこがまた素敵だったりするのですが)。

竹内本をテキストに使うことに僕は賛同しない*10のですが、ヒューネン本、特に第5章に対する副読本として『層・圏・トポス』はいいかも知れない、と思ったりします(が、上記記事の注意事項を読んでね)。あるいは逆に、事例が少ない竹内本を、ヒューネン本第5章のクリプキ・トポスを想定しながら読むのも面白いかも(特におすすめはしませんが)。

第4章:量子ハイパードクトリン

ヒューネン本の第2章と第3章は線形代数としてひと続きのものです。第4章「ダガー核論理」は線形代数を使った論理なので、第2章・第3章と関連しています。伝統的な量子論*11は、ヒルベルト空間の閉部分空間の束、あるいは射影作用素の束を調べるものですが、第4章「ダガー核論理」は、同じ趣旨で“論理”を展開していると言っていいでしょう。

集合圏におけるXのベキ集合Pow(X)に相当するものとして、ダガー核圏における核部分対象〈kernel subobject〉の集合KSub(X)というものを採用します。KSub(X)に論理演算を入れて、論理代数と捉えれば、(第4節のタイトルである)X上のダガー核論理ができあがります。ここまでだと命題論理の話であって、述語論理の限量子《量化子》が出てきません。

限量子の導入方法としては、ベースの圏のなかで射 f:X→Y を考えて、fによる論理代数の引き戻し f*:KSub(Y)→KSub(X) を考える方法があります。f*は議論域〈domains of discourse〉を取り替える操作、あるいは論理式への代入操作をシミュレートしています。そして限量子は、f*の随伴として導入します。限量子を導入するこの手法については次の記事で説明しています。

上記記事では名前を出さなかったのですが、インデックス付き圏《添字付き圏》と随伴を使うフレームワークハイパードクトリン〈hyperdoctrine〉と呼びます。ハイパードクトリンはローヴェア〈William Lawvere〉が発案・命名したようですが、政治か宗教のようなネーミングで、どうも使うのが憚られます。

ともかくも、ダガー核論理に対してハイパードクトリンの手法を組み合わせて、ヒューネンは量子論理の限量子を構成しています。ただし、存在限量子だけで全称限量子は存在しないようです。ヒューネンが記述している量子述語論理が、伝統的な量子論理からどれほど進化しているのか? 僕にはハカリかねるのですが、ハイパードクトリン・ベースの定式化により、古典論理などの他の論理との連絡が良くなっていると思います。

第5章:トポスの中と外

ヒューネン本のなかでもっとも面白そう、だけどもっとも難しそうなのが第5章「ボーア化」です。物理的な課題に対して、トポスと作用素環を組み合わせてアプローチしているようです。第5章「ボーア化」の前半はトポスのミニコースで、ここはなんとか読めるのですが、後半、本書の最後の32ページが僕には難儀。物理的な背景や動機をなーんも理解してませんからね。

ふと思い起こすのは、本書でも名前が出ているクリス・イシャム〈Chris J. Isham〉が、量子物理にトポスを使っているという噂を聞いたことです。それに対して「スジ悪で脈がない」という意見もどこかで目にした記憶があります。トポスに対応する論理は直観主義論理です。直観主義論理と量子論理は大きく異なるので、トポスと量子がフィットするわけがない、という指摘です。しかし、イシャムのような思慮深い数理物理学者が、そこまで軽率な発想をするとも思えないので、「なにかあるんだろうなぁ(よく知らんけど)」と思ってました。

ヒューネン本第5章がイシャム達の試みと同じかどうか知りませんが、非可換な作用素環の可換な影絵をトポスのなかに映し出すような話らしい(あくまで「らしい」)です。ボーア化という名前は、ボーアの「古典的概念の教義」から来ているそうです。トポスの外部にある非古典(≒非可換)なモノが、ボーア化を通してトポス内では古典的(≒可換)に見えるのでしょう(たぶん)。

可換の場合、ノルム環(可換C*環)とゲルファント・スペクトル、ブール束とストーン・スペクトル(ストーン空間)のように、代数(環や束)と空間(スペクトル)がうまいこと対応してきれいな双対性が成立しています。非可換だと、代数-空間・対応がそれほどうまくはいかないのでしょう。ボーア化は、トポスに投影された可換な影により、トポス内でゲルファント双対/ストーン双対を構成する試みみたいです。このテの双対性の簡単な例は次の記事で紹介しています。

前の節で名前を出した竹内外史さんが、適当なトポス内(集合論を構成できる環境内)で実数論や複素数論を展開すると、それが(外から見れば)作用素環の議論になっている、といったことをやっていたような気がします*12。ボーア化と関係するのかも知れませんね。

具象への回帰

前の節で触れたように、僕はボブ・クック教授のファンなんですが、彼はヒルベルト空間と線形写像を嫌い、それらをお絵描きで置き換えました。絵は、抽象的構造の直截的表現として使われています。

ヒューネンの定式化も、有限双積をもつ圏やダガー圏から出発しているので同じラインに沿っていると言えます(絵は使わないけど)。しかし、具象へと回帰する意識が強いな、と感じます。要所要所に、埋め込み定理、表現定理が配置されています。埋め込み定理/表現定理は、公理的に規定された構造物が、実は手で触れる具体物と同型だったと主張する定理です。

抽象と具象を行き来するプロセスがいきいきと描かれていることにより、ヒューネン本はエキサイティングなものとなっています。新興分野である圏論的物理/圏論的情報学の魅力を十分に伝えていると思います。こういった本を日本語で読めるというのは、僕には感慨深いですね。


後編(2/2)は何なんだ? ってことですが、冒頭に書いた、紙の情報伝達媒体としての評価です。これを気にするのは僕の偏向した基準なので、切り離したほうがいいと思ったんです。

[追記]続きを書きました。内容以外・編ですが、内容と多少は関係ありますね。

[/追記]

*1:「計算の論理」という言葉は曖昧で、計算のなかで使われる(例えばif文の条件記述)論理なのか、計算現象に関する法則を記述するメタ論理なのかハッキリしません。この曖昧さをハッキリさせることも「計算の論理」の一部なのでしょう。

*2:現在は岩波オンデマンドブックス https://www.amazon.co.jp/dp/4007305943 として販売されているようです。僕がたまたま持っていたのは、2007年のハードカバー本 https://www.amazon.co.jp/dp/4000054082 です。

*3:ベクトル空間や加群の圏の抽象化にはたくさんの変種があり、確立されたネーミングはありません。

*4:ヒューネンの定義では、双積と有限双積には微妙な違いがあります。

*5:僕は通常、「モノイド圏」と呼びますが、ヒューネン/川辺本では形容詞「モノイダル」が使われています。

*6:主表現という呼び名は今では古いらしく、(単項の)ホム関手と呼ぶのが普通のようです。

*7:とても簡単な例: 圏にゼロ対象《ヌル対象》があると、ホムセットを付点集合〈pointed set〉にできます。

*8:スカラー系が半環のときは半加群というべきかも知れません。が、単に「加群」で済ませます。

*9:セリンガーからの引用: Dagger compact closed categories were recently introduced by Abramsky and Coecke, under the name "strongly compact closed categories", as an axiomatic framework for quantum mechanics.

*10:竹内さんは、それほどチャンとした本を書く人じゃない、ということは知っておいたほうがいいです。でも、内容のエエカゲンさを補って余りある示唆・洞察・見識が含まれます。そこが魅力。

*11:昔からある量子論理のつもりで「古典的量子論理」と最初書いてしまったのだけど、それだと意味不明になってしまうよね。

*12:おそらく G. Takeuti, "Two applications of logic to mathematics" Princeton University Press, 1978