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参照用 記事

高次圏: 無基底・無限階層の世界とn-圏

思想的/哲学的な話をするなんてことはまったくなくて、n-圏〈高次圏〉の捉え方と使い方に関する技術的な話の背景を非技術的に語ろう、ということです。

内容:

[追記]2つの補足記事があります。どちらも同日の記事なので、本日の記事全体で3つの記事をまとめて読めます。→ 2018-09-17 (月) [/追記]

中観派アプローチ?

大乗仏教中観派と一般モデル理論」で、ラズヴァン・ダイアコネスク〈Răzvan Diaconescu〉のエッセイ「インスティチューション、中観派、一般モデル理論〈Institutions, Madhyamaka, and Universal Model Theory〉」を紹介しました。中観派〈ちゅうがんは〉は大乗仏教の学派です。

ダイアコネスクは、中観派思想を熱心に勉強した上で、それがインスティチューション/一般モデル理論/圏論などと同じ発想だと言っています。でも僕は、仏教は何も知らない(勉強する気もない)ので、ほんとのところ「同じ発想」かどうかは分かりません。確信がないので、記事タイトルに「中観派」は入れませんでしたが、ダイアコネスク論文から想像するに、僕がこの記事で言いたいことも中観派のアプローチに近いのでは? と思ってます。

ダイアコネスクからの受け売りで言えば、中観派の特徴は非本質〈non-essential〉とか無基底〈groundless〉とかのキーワードで表わされるようです。でも、non-essential, groundless を辞書で引くと、「不必要なもの」「事実無根」と、いい意味の言葉じゃないようです。groundless, baseless, unfounded などは、どうも誤解を招きそうな言葉なので、無基底であることは ground-fee がいいかも。

ここで言ってる基底〈ground, base, basis, foundation〉とは、「それ自身で絶対的に信頼できるモノ・コト」といった意味です。ベクトル空間の基底とかではないです。(おそらく)中観派によれば、基底なんてありゃしない、と*1。その代わり、すべてのモノ・コトは相互依存〈interdependent〉しているので、関連性はあるよ、ってことでしょう。

それと、中観派思想かどうか分かりませんが、手塚治虫が『火の鳥』で描いていたような、「世界は無限階層の構造を持ち、それぞれの階層は別物だが類似している」という世界観がありますよね。

フラクタルのように、相似変換で重なるってもんでもない。似てはいるけれど、階層ごとの個性のようなものもある、というような ……

[追記]今僕の手元には『火の鳥』は一冊もなくて、おぼろげな記憶だけです。検索で調べてみたら、火の鳥が無限階層の世界を語るのは『第2部 未来編』のようです。『未来編』の主人公・山之辺マサトが、ミクロの世界から宇宙の外側までを旅する(夢をみる?)シーンがあるので、それが僕の記憶に残っているのでしょう。特定の仏教思想とかではなくて、手塚治虫自身の世界観なのだと思います。手塚治虫が仏教の影響を受けている可能性はあるでしょうが。[/追記]

とまー、ダイアコネスクからの受け売り、手塚治虫からの受け売りをボンヤリ並べているわけですが、ここで出てきたキーワード、無基底性、相互依存性、無限階層性などは、n-圏(高次圏)を考える上でも重要だと思うのです。

無限階層性

最近の記事「マイクロコスモ原理と構造の無限タワー」で、モノイドという構造・概念は、無限階層の世界における無限タワーとして定義されること(のアウトライン)を示しました。これはモノイドに限ったことではないでしょう。つまり:

  • すべての構造・概念は、無限階層のなかの無限タワーとして現れる。

なんらかの構造・概念、例えば「集合」という構造・概念に対して、それに1という番号を付けて1-集合と呼んでみます。すると、1-集合以外に2-集合、3-集合がありそうな気がしてきます。あるいは、0-集合、(-1)-集合、(-2)-集合もあるかも知れません。それらが、集合概念のトータルな姿を表すのでしょう。

  • 集合: ..., (-2)-集合, (-1)-集合, 0-集合, 1-集合, 2-集合, 3-集合, ...

我々にお馴染みなのは1-集合です。その1-集合に対して、別な系列が存在する可能性も否定できません。

  • 集合': ..., (-2)-集合', (-1)-集合', 0-集合', 1-集合' = 1-集合, 2-集合', 3-集合', ...

現状における理解では、次のようなn-集合(n = ..., -2, -1, 0, 1, 2, 3, ...)があると思われています(「ファンタジー: (-1)次元の圏と論理」参照)。

n n-集合
-2
-1
0 真偽値
1 集合
2
3 2-圏

「集合概念を表す系列はこれに限る」と言い切ってしまうと、「絶対的に信頼できるモノ・コト」を導入してしまうので無基底でなくなります*2あくまで一例としてのトータルな集合概念です。

無基底性の不安をどうやって解消するか

無限階層〈infinite hierarchy〉の世界観のなかで無基底性を考えると、

  1. 水平方向の無基底性
  2. 垂直方向の無基底性

に分類されるでしょう。

特定の階層を考えたとき、その階層内で「これが基底だ/本質だ」といえるモノなどない -- こう主張するのが水平方向の無基底性です。一方、どこかの階層を特定して、それが基底層だとはいえない -- こう主張するのが垂直方向の無基底性です。

これらの無基底性は、何も信用できないような不安、自分が立っている足元もいつ崩れ落ちるか分からないような不安を与えます。これは、僕がマイクロコスモ原理に感じた不安感です。

水平方向にも垂直方向にも無基底な無限階層の世界でも、次の事実はあります。

  1. 絶対的基底はなくても、典型的事例はある。
  2. 無限に階層が続いても、具体的に構成可能な無限タワーがある。

「これが唯一の基底だ」とは主張できなくても、世界のなかのモノ・コトを「馴染み深い」「扱いやすい」という理由で選択することはできます。無基底だということは、多様性が認められることであり、その多様さのなかから選ぶ自由もあります。

前節のn-集合の例でも、真偽値Bool、集合圏Set、圏の圏Catなどは、「馴染み深く扱いやすい」という理由で選んでいるといえます。それ以上の大義名分は要りません。

もし「すべての構造・概念は、無限階層のなかの無限タワーとして現れる」なら、そのなかには得体の知れない無限タワーもあるでしょう。「高次圏: 複雑さの2つの方向と半厳密性」で言及した、もっとも弱い定義のn-圏の系列wn-Catは得体の知れない無限タワーです。しかし、ストリクトなn-圏の系列sn-Catは下から順に帰納的に構成可能な無限タワーです。n-モノイドの系列(「マイクロコスモ原理と構造の無限タワー」参照)も、途中で安定するので具体的に構成可能な無限タワーと言っていいでしょう。

要するに、わけわからんモノが無限にあるけど、チャンと分かっていて具体的に触れるモノも確かにあるから、それらを手がかりにすればいいんじゃない、ってことです。

で、何が嬉しいのか

無限階層を認め、基底に頼らない考え方のメリットは何か?

まず、無限階層性と無基底性により、視野が固定されることがなくなり、モノゴトの共通性・類似性を観測しやすくなります。n-モノイド、n-集合を挙げましたが、他のn-ナントカを考えると、個々のn(次元、階層のレベル)によらない構造やnが変わったときの変化が見えてきたりします。

最近気付いた例を述べると; 要素/ベクトル/点は、それぞれ集合/ベクトル空間/位相空間の“インスタンス”と言えるでしょう。単に“インスタンス”ではなくて、“1-インスタンス”と呼んでみましょう。そうすると、1-インスタンスが所属する集合/ベクトル空間/位相空間は“1-クラス”(あるいは“1-タイプ”)と言えます。1を2に増やして、2-インスタンスと2-クラスは何でしょうか? しばらく考えると、2-インスタンスは既に様々な呼び名をされていることに気付きます: モデル、代数、加群、表現など。一方で、2-クラスにはこれといった呼び名がないようです。この状況を一般化すれば、n-インスタンスとn-クラスの関係を議論できます。このことは、意図的に無限タワーを作ってみて(少しだけ)分かったことです。

すべての構造・概念を無限タワー化するのは非常な労力がかかるので、すぐに出来るようなことではありませんが、目ぼしい構造・概念を無限タワー化するだけでも、世界の見え方がだいぶ変わります。具体例を挙げないとピンと来ないと思いますが、事例はいずれそのうち。

*1:言葉の使い方として、相互依存する一部分を取り出して、便宜的・暫定的にどれかを「基底」と呼ぶことは何の問題もありません。これは、絶対的な基底(本質)ではなくて相対的な基底(関連性)です。

*2:無基底性はある種の相対主義〈relativism〉でしょう。相対主義に対しては、「相対主義を絶対化している点で相対的じゃない」という話が出てきますが、そんな議論はしたくないです。なぜなら、無基底性を有効な作業仮説と思っているから使うのであって、「有効そうだ」以上の根拠を求める気はないからです。