「郷に入っては郷に従え」という諺がありますが、従うべき郷の習慣を知らないと、何がなんだかサッパリ分からなかったり、とんでもない誤解をしたりします。
内容:
微分幾何の習慣は知らない
添字をたくさん使うテンソル計算と、そんなテンソル計算を使う微分幾何は、早い段階で「やってられん!」と投げ出しました。そこらへんの事情は昔書いたことがあります。
後になって、ネルソン〈Edward Nelson〉の本で少し勉強しました。
ネルソンの本はモダンですが、ネルソンが考案した記法で書かれていて、伝統的な微分幾何とはだいぶ違います*1。
そんな事情で、伝統的な微分幾何では常識であっても、僕はまったく知らないことが多々あります。
特別な意味の文字
特定の文字が、固有名詞として特定の対象物を指すことは珍しくありません。ギリシャ文字・小文字'π'は円周率を表します。ラテン文字・小文字'e'はネイピア数ですね。もちろん、この約束が破られることもあります。正確に言えば、特定の分野や文脈において、特定の文字が、固有名詞として特定の対象物を指すことがある、です。
微分幾何にけるラテン文字・小文字's'、物理の相対論におけるギリシャ文字・小文字'τ'が、そのような特別な意味を持つ文字だったようです(知らなかった)。s, τは、「特定の対象物を指す」というより、「特別な使い方の習慣がある」ということです。ほんとに特別なんです。なかなか推測は出来ないので、知ってないとアウトだと思います。
以下では、ラテン文字・小文字's'の特別な使い方の習慣を話題にします。実は、's'については「そう言えば、そんな習慣あったな」くらいの記憶はあるのですが、'τ'についての習慣はまったく知らなかったので、ホントに何がなんだかサッパリ分からなかったです*2。
dsって何だろう
多様体を持ち出すと面倒なので、関数やベクトル場を考える領域は、Rnの開部分集合Uに限定します。なんなら、n = 2 とか n = 3 に次元を固定してもいいです。
's'について特に何も知らないとして、ds と書かれていたら、どう解釈するでしょう? 僕は、dは微分(外微分)と思うので、sは関数 s:U→R で、それを微分してdsなんだ、と解釈します。dsは、U上の1次微分形式(の場)ですね。
ds2 ならどうでしょう? d(s2) とは考えにくいので、(ds)(ds) と解釈します。dsの併置(並べること)は、なんらかの掛け算でしょう。1次微分形式には自然な掛け算があります。αとβが1次微分形式だとして、
- (αβ)(v) = α(v)β(v) (右辺の併置は実数値関数の普通の掛け算)
ここで、vはU上の接ベクトル場です。Uの一点pで考えるならば、
- (αβ)p(vp) = αp(vp)βp(vp) (左辺の併置は実数の普通の掛け算)
ds2 とは、たぶんそんなもんだろう、と思いますよね。実際はまったく違うんですわ。
接ベクトル場、余接ベクトル場
Uの一点pでの接ベクトルの全体を TpU と書きます。U⊆Rn なので、TpU Rn です。点pごとに、TpU の要素(つまり接ベクトル)を割り当てる写像が接ベクトル場です。接ベクトル場vは、v:U→Rn と考えてかまいません(あくまで U⊆Rn, TpU Rn だからです)。点pでのvの値は、v(p)ではなくてvpと書くことにします(後で理由は分かるでしょう)。
TpU の標準双対空間を T*pU と書きます。
- T*pU := (TpU)*
T*pU の要素を、点pにおける余接ベクトルといいます。点pごとに、T*pU の要素(つまり余接ベクトル)を割り当てる写像は余接ベクトル場です。余接ベクトル場αは、α:U→(Rn)* と考えてかまいません。しかし、(Rn)* とRnを同一視することはしません。点pでのαの値は、α(p)ではなくてαpと書くことにします。余接ベクトル場の一点での値αpは、TpU→R という線形写像です。
余接ベクトル場と1次微分形式はまったく同じ概念です。ここから先は、「余接ベクトル場」のほうを使います。
α:U→(Rn)* が余接ベクトル場、v:U→Rn が接ベクトル場のとき、
- U∋p |→ αp(vp) ∈R
は、U上の実数値関数、つまりスカラー場になります。点引数pを下付きにしたのは、α(p)(v(p)) だとちょっと分かりにくいからです。
内積場、ノルム場
Uの点pごとに、接ベクトル空間TpUに内積が入っているとします。点pにおける内積を (-|-)p と書きます。ハイフン'-'は無名変数です。(-|-)p:TpU×TpU→R で、(-|-)p は内積の公理を満たす双線形写像です。
- U∋p |→ [内積 (-|-)p:TpU×TpU→R]
これは、点pごとに内積を割り当てているので、内積場という言い方をしてもいいでしょう。普通は、内積場とは言わないで計量場ですけど。
v, w:U→Rn が2つの接ベクトル場のとき、
- U∋p |→ (vp|wp)p ∈R
はスカラー場です。内積場があれば、2つの接ベクトル場を内積してスカラー場を得ることができます。例えば、(vp|wp)p がpによらず恒等的に0なら、「vとwは直交する接ベクトル場だ」とか言えます。
接ベクトル場 v:U→Rn に対して、
- U∋p |→ sqrt((vp|vp)p) ∈R
と定義すると、これは、各点pでの接ベクトルの長さを与えることになります。長さはノルムとも言うので、p |→ sqrt((vp|vp)p) という割り当てをノルム場と呼びましょう。点pでのノルムは |-|p と書きます。この記法を使ってノルム場を次のようにも書けます。
- U∋p |→ [ノルム |-|p:TpU→R]
接ベクトル場 v:U→Rn に対するノルム |v| は、次のようなスカラー場(U上の実数値関数)になります。
- U∋p |→ |vp|p ∈R
内積場/ノルム場の表示
v:U→Rn をU上の接ベクトル場とします。成分表示して、
- v = (v1, ..., vn)
とします。横ベクトル形式で書いてますが、実際は縦ベクトル形式なんだと思ってください。vの転置 vT が横ベクトル形式です。点pごとの値は、
- vp = (vp 1, ..., vp n)
vp i と書くか、vi p と書くか悩みますが(どっちでもいい)、この形式にします。
U上の内積場 p |→ (-|-)p を具体的に定義するとき、点pごとにn×n行列を与えればいいですね。Gがそのような行列の場だとします。
- G:U→Mat(n, n)
ここで、Mat(n, n)はn×n行列の空間です。この行列場Gを使って、
- (vp|wp)p := (vpT)Gpwp
と内積の値を定義できます。n = 2 の場合をもっと具体的に書けば:
対応するノルム場は、
- |vp|p := sqrt((vpT)Gpvp)
n = 2 の場合のノルム場は、
上記のルート内を展開して書いてみます。ここから先では、下付きpが煩雑なので省略します。点pごとではなくて、U全体に対して記述していると思ってください。
あるいは両辺を二乗して:
一般的な次元nでは:
ここで、vは接ベクトル場、Gは行列場ですが、添字が付いた Gji, vj, vi 達はスカラー場です。
ノルム場がdsだった
前節のノルム場をNという1文字で表すことにします。
ノルム場Nの二乗はN2とします。
内積場やノルム場を、dxi を使って書く場合もあります(それが普通)。
これは、完全に合理的な記法です。なぜなら、dxiは余接ベクトル場で、ベクトル場vに対して dxi(v) = vi と成分を取り出す働きがあるからです*3。
辻褄が合ってますね。
辻褄が合わなくなるのはここからです。ノルム場Nを、dsと書く習慣があるのです。ノルム場の二乗N2ならds2です。
dsをdとsに分解してはダメです。s自体に意味があるわけではなくて、'ds'を単一の記号とみなして、それはノルム場を表すために予約されていると解釈します。sは関数ではなく、dsは余接ベクトル場〈1次微分形式〉ではありません。ノルム場(またはその二乗)の定義式を見て、「sは何だろう?」「sはどこから来たのだろう?」「sの正体は?」とか考えるのはまったくのナンセンスです。だって、単なる習慣的記法だもの。
それ相応の文脈があれば誤解はないでしょうが、ノルム場の具体的な定義として、 ds = (なんか具体的な式) という等式がポンと出されると、「sを微分したのが (なんか具体的な式) なのね」てなことになります。で、ワケワカメ状態。
習慣の由来は
ノルム場をdsと書くようになった由来は、割と容易に想像がつきます。弧長パラメータという概念があり、その弧長パラメータをsと書く習慣があります。無限小な弧長だから「d(無限小) + s(弧長)」となったのでしょう。
「sという関数にdという作用素を適用した」のではなくて、「無限小弧長」を表す符丁だったんですね。ほぼ固有名詞みたいなもんです。
この特殊な用法でのdsを、「線素」とも呼ぶようです。「線素」という言葉は聞いたことがありますが、「線」が1次元のモノを意味し、「素」が無限小で、「線素=接ベクトル」だろうと僕は解釈していました。「線素=接ベクトルの長さ=無限小弧長」という意味もあるんですね。
理解を妨げたり、誤解を招く言葉や記法というのは、いたるところにあって落とし穴になるのですが、僕も落とし穴にマンマと落とされました。
- dsはdとsに分解しない。単なる習慣的記法。s単独で意味などない
[追記]これ(↑)は言い過ぎかな。'd'と's'に分解した上で、それぞれ単独での意味は、探せば在りますね、解釈法を変えれば。'd'を微分(外微分作用素)と解釈している限りは's'に意味を持たせられない、ということです。[/追記]
[さらに追記]この記事の修正はしませんが、言い過ぎに対する補正をするために続きの記事を書きました。
[/さらに追記]