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参照用 記事

微分幾何におけるヤコビ行列の書き方: 因習の擁護

伝統的(因習的微分幾何の記法は、不合理の塊です。不合理な記法をやめられないのは、確かに便利だからです。

xとyが多様体M上の2つの局所座標だとして、xからyへの座標変換のヤコビ行列(の成分)は、
 \frac{\partial y^j}{\partial x^i}
と書きます。一方、f:M→N を多様体のあいだの(なめらかな)写像として、fのヤコビ行列(の成分)も、
 \frac{\partial y^j}{\partial x^i}
と書くことがあります。

普通に考えたらまったくオカシイのですが、擁護できないわけでもありません。禁止したところで実際には「やめられない」のであれば、不合理さの背後にあるメカニズムを明らかにしておくのが現実的対処だと思います。という理由で擁護します*1

ちなみに、昨日書いた記事「微分幾何で上付き・下付きアスタリスクを使い過ぎるのはよくない」も伝統的記法の話題ですが、便利さより紛らわしさが目立つので、擁護はしてなくてタイトルどおりの警告です。

内容:

[追記]補足の内容がけっこう重要。[/追記]

定義と略記と乱用

左辺を右辺で定義するとき、':=' というコロン付きのイコールを使うことがあります(単なるイコールも多いですが)。定義の等号はお馴染みでしょうし、特に言うことはありません。

定義の等号と同じ記号 ':=' を、略記の約束にも使います。後で出てくる例で、次の略記の等号があります。

  • πi := πi/n|U

これは、右辺のように書くのが正式だが、めんどくさいから左辺のように短く書くこともあるよ、という意味です。略記の約束であることを強調したいときは次のように書きます。

  • πi := πi/n|U (略記)

略記の約束のなかには、等式と考えると明らかに不合理なものがあります。伝統的微分幾何で割とよく使われている例で、fを多様体M上の実数値関数、xを局所座標として:

  • f := f\circx-1

まともに考えれば、いろいろオカシイですね。このように、オカシイのは承知で使う略記のときは、次のように書きましょう。

  • f := f\circx-1 (乱用)

用語と記法の準備:略記がたくさん

写像 f:A→B と部分集合 X⊆A, Y⊆B があり、f(X)⊆Y のとき、fの制限〈restriction〉 f|XY が定義できます。(f|XY)(a) = f(a) であり、域をXに、余域をYに制限したものです。域だけ、余域だけの制限は、f|X, f|Y と書きます。

Rn上の第i射影〈i-th projection〉を πi/n:RnR とします。nが了解されているなら省略します。

  • πi := πi/n (略記)

U⊆Rnを開集合として、

  • πi := πi|U := πi/n|U (略記)

つまり、開集合に制限した第i射影も、同じ記号 πi で書きます。

f:A→U, U⊆Rn(開集合) のとき、次の略記をします。

  • fi := πi\circf := (πi|U)\circf := (πi/n|U)\circf (略記)

以下、U, V, W などは、適当な次元のユークリッド空間の開集合だと約束します(暗黙の仮定を設ける)。

n次元ユークリッド空間上のなめらか関数に対する第i偏微分作用素〈i-th partial {differential | derivative} operator〉を ∂i/n と書きます*2

  • i/n:C(Rn)→C(Rn)

nが了解されているときは省略します。

  • i := ∂i/n (略記)

開集合 U⊆Rn に対しては、

  • i/n U:C(U)→C(U)

Uが了解されている前提で次の略記を許します。

  • i := ∂i U := ∂i/n U (略記)

今までの略記の約束のもとで、次が成立します。

  •  \partial_i \pi^j = \delta_i^j

これは、すべての n∈N, U⊆Rn に対する次の等式を(略記により)表現しています。

  •  (\partial_{i/n\;U})( \pi^{j/n}|_U) = \lambda x\in U.(\delta_i^j) \:\:\in C^{\infty}(U)

ここで、'λ'はラムダ記法のラムダで、クロネッカーのデルタが実は定数関数であることを明示しています。この等号は、C(U) の要素の等しさを表しています。

[補足]
上記の説明内で、ユークリッド空間上の(一階の)偏微分作用素には変数名を使っていません。これは重要なことです。通常、ユークリッド空間上の偏微分作用素にも適当な変数名、例えば x を付けて:

  •  \frac{\partial}{\partial x^i} = \partial_i

と書きますが、これは(可能な限り)避けましょう。「微分計算、ラムダ計算、型推論 // 何がダメなのか」で述べたように、色々とオカシナことになり、話がグチャグチャに混乱してしまいます。

ユークリッド空間上の偏微分作用素と射影関数には ∂i, πi を使い、局所座標 x に伴う多様体上の偏微分作用素と座標成分関数に  \frac{\partial}{\partial x^i},\; x^i を使いましょう。この約束を守るだけでも、話はだいぶスッキリします。
[/補足]

ヤコビ行列

U⊆Rn, V⊆Rm として、ユークリッド空間(の開集合)のあいだの(なめらかな)写像 φ:U→V を考えます。φのヤコビ行列〈Jacobian matrix〉を J(φ) と書きます。

可換環Rを係数域とするn列m行(n行m列ではない!)の行列の全体を Mat[R](n, m) と書きます。R = R のときは係数域は省略します。

  • Mat(n, m) := Mat[R](n, m) (略記)

J(φ) のi列j行成分は定義により次のように書けます。

  •  J(\phi)_i^j := \partial_i \phi^j

この書き方では、次元 n, m 、開集合 U, V などはすべて了解されているとして省略しています。

特定の点 a∈U での値を取ると:

  •  (J(\phi)_i^j)(a) := \partial_i|_a \phi^j = (\partial_i \phi^j)(a)

これから、J(φ) は、U→Mat(n, m)というなめらかな写像だとわかります。

  • C(U, Mat(n, m)) \cong Mat[C(U)](n, m)
  • 行列値の関数は、関数の行列と同じ。

という同型が成立するので、J(φ)∈Mat[C(U)](n, m) と考えることもできます。

微分作用素Jのプロファイル(域と余域)は、

  • J:C(U, V)→C(U, Mat(n, m))

または、

  • J:C(U, V)→Mat[C(U)](n, m)

です。

紛れがないときは、J(φ) の括弧は省略します。

  • Jφ := J(φ) (略記)

ヤコビ行列全体は、次の記法で書くことにします。

  •  J\phi = (\partial_i \phi^j)_{i\in 1..n}^{j\in 1..m}

ここで、1..n := {1, ..., n} と定義しています。

[補足]
この節で出てきた同型

  • C(U, Mat(n, m)) \cong Mat[C(U)](n, m)

は、実はカリー化同型です。

集合として Mat[R](n, m) \cong Set({1, ..., n}×{1, ..., m}, R) です。
{1, ..., n}×{1, ..., m} は単なる有限集合ですが、0次元多様体と考えれば、

  • Mat[R](n, m) \cong C({1, ..., n}×{1, ..., m}, R)

これを考慮すると、先の同型は次のようです。

  • C(U, C({1, ..., n}×{1, ..., m}, R)) \cong C({1, ..., n}×{1, ..., m}, C(U, R))

これは、次のカリー化同型から出ます。

  • C(U, C({1, ..., n}×{1, ..., m}, R)) \cong C(U×{1, ..., n}×{1, ..., m}, R)
  • C({1, ..., n}×{1, ..., m}, C(U, R)) \cong C({1, ..., n}×{1, ..., m}×U, R) \cong C(U×{1, ..., n}×{1, ..., m}, R)

0次元とは限らない一般の多様体に関するカリー化同型は成立しない(成立させる設定が難しい)ですが、0次元ならOKです。
[/補足]

局所座標変換のヤコビ行列

Mは(なめらかな)n次元多様体、X⊆M を開集合とします。x:X→Rn, y:X→Rn を2つの局所座標とします。x(X) = U, y(X) = V と置きます。次の略記を許します

  • x-1 := (x|U)-1 (略記)
  • y-1 := (y|V)-1 (略記)

xからyへの座標変換は、y\circx-1:U→V として定義されます。座標変換 y\circx-1ユークリッド空間(の開集合)のあいだのなめらかな写像なので、そのヤコビ行列は定義できます。

  •  J(y \circ x^{-1}) = (\partial_i (y \circ x^{-1})^j)_{i\in 1..n}^{j\in 1..m}

ところで、多様体上の作用素  \frac{\partial}{\partial x^i}:C(X)→C(X) は次のように定義されるのでした(「接ベクトル場の定義:補遺 」参照)。

  •  \frac{\partial f}{\partial x^i} :=  (\partial_i(f \circ x^{-1})) \circ x

これらから、次の等式が言えます。

  •  J(y \circ x^{-1})\circ x = (\frac{\partial y^j}{\partial x^i})_{i\in 1..n}^{j\in 1..m}

計算は:

\:\:\: J(y \circ x^{-1})\circ x \\
= (\partial_i (y \circ x^{-1})^j)_{i\in 1..n}^{j\in 1..m} \circ x \\
= (\partial_i (y^j \circ x^{-1}))_{i\in 1..n}^{j\in 1..m} \circ x \\
= ( (\partial_i (y^j \circ x^{-1})) \circ x )_{i\in 1..n}^{j\in 1..m} \\
= ( \frac{\partial y^j}{\partial x^i} )_{i\in 1..n}^{j\in 1..m} \\

冒頭で触れたように、ユークリッド空間の開集合U上の関数や行列(行列値関数)を、多様体の開集合X上の関数や行列と同一視する習慣があります。その習慣を採用すると:

  •  ( \frac{\partial y^j}{\partial x^i} )_{i\in 1..n}^{j\in 1..m} = J(y \circ x^{-1})\circ x := J(y \circ x^{-1}) (乱用)

つまり、ユークリッド空間上のヤコビ行列も多様体上のヤコビ行列も区別しないでどちらも
 ( \frac{\partial y^j}{\partial x^i} )_{i\in 1..n}^{j\in 1..m}
と書くことになります。実際には異なる2つの行列(行列値関数)であり、xまたはx-1のプレ結合〈pre-composition〉でお互いに移り合います。

多様体間の写像のヤコビ行列

M, X, x, U は前節のとおりとして、N, Y, y, V は改めて次のように設定します。

  • N は多様体
  • Y⊆N は開集合
  • y:Y→Rm は局所座標
  • y(Y) = V

Mの次元がnで、Nの次元がmなのが気持ち悪いですが、行きがかり上しょうがない

f:M→N は(なめらかな)写像で、f(X)⊆Y とします。fは X, Y に制限できますが、制限を同じ記号で表します。

  • f := f|XY (略記)

これは、略記より乱用かも知れないですけど、いいとしましょう。

φ:U→V を次の図式が可換になるように定義します。

\require{AMScd}
\begin{CD}
U     @>\phi>>  V \\
@A{x}AA         @AA{y}A \\
X     @>f>>     Y
\end{CD}

つまり、

  •  \phi := y \circ f \circ x^{-1}

φのヤコビ行列をX上に引き戻した行列を、局所座標 x, y に関するfのヤコビ行列〈Jacobian matrix of f with respect to x, y〉ということにします。その書き方と定義の等式は:

  •  J_x^y(f) := J(\phi)\circ x = J(y \circ f \circ x^{-1})\circ x

 J_x^y(f) を成分表示すると、次のように書けます。ただし、これは乱用に基づく等式で、正しくはありません。

  •  ( \frac{\partial f^j}{\partial x^i} )_{i\in 1..n}^{j\in 1..m} = J_x^y(f) (乱用)

乱用の元凶部分を抽出すると:

  •  f^j := (y\circ f)^j = y^j \circ f = \pi^j \circ y \circ f (乱用)

乱用をやめて正しく書くなら、

  •  ( \frac{\partial (y^j \circ f)}{\partial x^i} )_{i\in 1..n}^{j\in 1..m} = J_x^y(f)

これならば、次の計算で示せます。

\:\:\:\: J_x^y(f) \\
= J(y \circ f \circ x^{-1})\circ x \\
= (\partial_i (y \circ f \circ x^{-1})^j )_{i\in 1..n}^{j\in 1..m} \circ x \\
= (\partial_i (y^j \circ f \circ x^{-1}) )_{i\in 1..n}^{j\in 1..m} \circ x \\
= (\partial_i ( (y^j \circ f) \circ x^{-1}) )_{i\in 1..n}^{j\in 1..m} \circ x \\
= ( (\partial_i ( (y^j \circ f) \circ x^{-1})) \circ x)_{i\in 1..n}^{j\in 1..m}  \\
= ( \frac{\partial (y^j \circ f)}{\partial x^i} )_{i\in 1..n}^{j\in 1..m}  \\

さらに次のような乱用を使うこともあります。

  •  y^j := f^j := y^j\circ f (乱用)

この乱用のもとでは、先の公式は次のようになります。

  •  ( \frac{\partial y^j}{\partial x^i} )_{i\in 1..n}^{j\in 1..m} = J_x^y(f) (乱用)

この等式が、X上で成立してるのかU上で成立してるのかも、XとUの同一視により曖昧(良く言えば融通無碍)にします。等式の形自体は、局所座標変換のヤコビ行列と区別できなくなります。

このような乱用を、「細かいことを考えずに済むので計算が楽で便利」と捉えるか「どこで何をやっているのかが不明になって不便」と捉えるかは人それぞれです。

写像のヤコビ行列と座標変換のヤコビ行列が区別できなくなるのは、たいていは困りますが、写像のヤコビ行列の特別な場合が座標変換のヤコビ行列だとは言えます。次の特殊ケースを考えます。


\begin{CD}
U     @>\phi>>  V \\
@A{x}AA         @AA{y}A \\
X     @>{id_X}>>      X
\end{CD}

このとき、

  •  J_x^y(id_X) = J(y \circ id_X \circ x^{-1})\circ x  = J(y \circ x^{-1})\circ x

なので、座標変換のヤコビ行列が再現します。

*1:[追記]擁護とは言っても、積極的に使用をすすめるものではありません。使用しないのが望ましいのですが、使用することを禁止まではしませんよ、ってことです。使用するなら、事情を知った上で使ってください。[/追記]

*2:一般の偏微分作用素ではなくて、一階の偏微分作用素です。