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参照用 記事

(-1)乗記号の憂鬱と混乱

f:{\bf R}^2 \to {\bf R}^2 は、可逆で微分可能な写像〈関数〉だとしましょう。この関数の逆関数微分は、次の公式で与えられます。

 D(f^{-1}) = (Df)^{-1}\circ f^{-1}

Df は“fの微分”を与える2×2の行列値関数(ヤコビ行列)です。

この公式を見たある人が、次のように“式変形”してから公式を使おうとしました。

 D(f^{-1}) = (f\circ Df)^{-1}

そして、「んっ? えっ。あれっ。アッレェーー??」と混乱していました。

もとの公式の書き方が(間違いではないけど)不親切というか誤解をまねく表現なんですね。右肩に -1 を載せる指数の書き方は、多義的で〈オーバーロードされていて〉意味が取りにくく誤解・混乱の原因になります。

この記事で (-1)乗記号の幾つかの例を出して明確化します。(-1)乗記号に限らず、誤解をまねく困った記法の例は色々あります。言えることは、「なんとなくボンヤリと捉えるのではなくて、文脈に応じてちゃんと解釈しましょう」です。

内容:

(-1)乗記号の用法

右肩に指数として -1 を載せる書き方は、次のような意味で使われています。

  1. 逆元
  2. 写像
  3. 逆数関数
  4. 逆像

他にもあるかも知れませんが、とりあえずこの4つの用法を見ていきましょう。

逆元

逆元〈inverse element〉というと、群を連想する人が多いかも知れませんが、部分写像〈partial map〉でいいのなら、任意のモノイドにおいて逆元を作る対応を考えることができます。

M = (M, *, e) (記号の乱用)をモノイドとして、Mの部分集合 Invtbl(M) (可逆〈invertible〉な要素の全体)を次のように定義します。

  • Invtbl(M) := {x∈M | x*y = y*x = e となる y∈M が存在する}

e∈Invtbl(M) なので、Invtbl(M) は空ではありません。x∈Invtbl(M) に対して、x*y = y*x = e となる y は一意であることが証明できます。なので、(x \mapsto y) として、次のプロファイルの写像 invM が定義できます。

  • invM:Invtbl(M) → M in Set

Par を集合と部分写像〈paritial map〉の圏として、invM を部分写像と考えることもできます。

  • invM:M → M in Par

invM(x) を簡略に表す記法が x-1 です。

写像

X, Y を集合として、XからYへの写像の全体を Map(X, Y) と書きます。可逆な写像〈invertible map〉の全体を InvtblMap(X, Y) とします。

  • InvtblMap(X, Y) := {f∈Map(X, Y) | f;g = idX かつ g;f = idY となる g∈Map(Y, X) が存在する}

InvtblMap(X, Y) は空集合になることがあります。例えば、InvtblMap({1, 2}, {1}) は空です。

f∈InvtblMap(X, Y) に対して、f;g = idX かつ g;f = idY となる g∈Map(Y, X) (gがfの逆写像〈inverse map〉)は一意であることが証明できます。なので、(f \mapsto g) として、次のプロファイルの写像 invMapX,Y が定義できます。

  • invMapX,Y:InvtblMap(X, Y) → Map(Y, X) in Set

invMapX,Y を部分写像と考えることもできます。

  • invMapX,Y:Map(X, Y) → Map(Y, X) in Par

invMapX,Y(f) を簡略に表す記法も f-1 です。

逆数関数

典型的な逆数関数〈reciprocal function〉は {\bf R}_{\ne 0}\ni x \mapsto \frac{1}{x} \in {\bf R} ですが、少し一般化して、モノイドを余域とする関数 f:X → M (M = (M *, e) はモノイド)があるとき、“fの逆数関数” g を次のように定義します。

  • For x∈X, g(x) := invM(f(x))

invM は先に出てきた逆元を対応させる部分写像です。

任意の x∈X に対して g(x) ∈ Invtbl(M) ならば、g = f;invM :X → M in Set という普通の写像〈全域決定性写像〉として定義できます。そうでないときでも、部分写像として結合〈合成〉して g = f;invM :X → M in Par は定義できます。

f:X → M に対する f;invM :X → M (Set または Par の射)を、fの逆数関数〈the reciprocal {function}? of f〉といいます。例えば、https:​//www.storyofmathematics.com/reciprocal-function(このページ、広告多すぎ)を参照。

fの逆数関数を f-1 と書くかも知れません。

逆像

f:X → Y in Set として、fによる B⊆Y の逆像〈inverse image〉は次のように定義します。

  • f-1(B) := {x∈X | f(x)∈B}

もう既に使ってますが、逆像にも(-1)乗の記号を使います。(B \mapsto f-1(B)) という対応は、次のプロファイルの写像です。

  • f-1:Pow(Y) → Pow(X) in Set

ベキ集合構成を、集合圏SetからSetへの反変自己関手と考えたときの射部分〈morphism part〉が (f \mapsto f-1) です。

(-1)乗の記号のままだと分かりにくいので、f-1 の代わりに Pow(f) と書けば:

  • Pow(f):Pow(Y) → Pow(X) in Set

これが反変自己関手だと言ったのは、次の性質をもつからです。

  1. For X∈|Set|, Pow(X)∈|Set|
  2. For f:X → Y in Set, Pow(f):Pow(Y) → Pow(X) in Set
  3. For f:X → Y, g:Y → Z in Set, Pow(f;g) = Pow(g);Pow(f) :Pow(Z) → Pow(X) in Set
  4. For X∈|Set|, Pow(idX) = idPow(X) :Pow(X) → Pow(X) in Set

ただし、逆像ではなくて順像〈image〉も関手になるので、これらを区別するために次のような書き方をします。

  • f:X → Y in Set に対して、
  • 逆像による反変ベキ集合関手の値: Pow*(f):Pow*(Y) → Pow*(X) in Set
  • 順像による共変ベキ集合関手の値: Pow*(f):Pow*(X) → Pow*(Y) in Set

逆関数微分公式

冒頭に挙げた逆関数微分公式  D(f^{-1}) = (Df)^{-1}\circ f^{-1} をちゃんと解釈してみましょう。

f:{\bf R}^2 \to {\bf R}^2微分は、Df:{\bf R}^2 \to Mat(2, 2) という写像になります。ここで、Mat(2, 2) は、実数成分の2行2列の行列の集合です。2行2列の行列の全体は掛け算でモノイドとなるので、逆元〈逆行列〉を対応させる写像があります*1

inv_{Mat(2,2)}:Invtbl(Mat(2, 2)) \to Mat(2, 2)

(Df)^{-1} の意味は Df;inv_{Mat(2,2)} = inv_{Mat(2,2)}\circ Df のこと、つまり Df の逆数関数(逆関数ではない!)です。それに対して、f^{-1}invMap_{{\bf R}^2, {\bf R}^2}(f) のことです。

ですから、逆関数微分公式を(-1)乗記号を使わずに書くと:

 D(invMap_{{\bf R}^2, {\bf R}^2}(f)) = (inv_{Mat(2,2)}\circ Df) \circ invMap_{{\bf R}^2, {\bf R}^2}(f)

これは煩雑過ぎますが、でも、言っている意味を解釈すればこんなことになります。

(-1)乗記号のような記法は、簡潔で視認性も良くて便利です。が、ときに人をたぶらかして過ちの沼に誘います。沼にハマらないためには、記号の表層に騙されずに「言っている意味を解釈」する必要があります。

*1:写像達をどんな圏のなかに居るのか? というと、微分する話なら可微分写像の圏でしょう。可微分写像の圏をきちんと定義するのは面倒なので明示していませんが。