なんばさんの記事を読んで、話の本筋とは関係ないのだけど、興味を引かれたことがあったので書いておきます。
- Aさんがpと主張した。
- pは正しいだろう、だってAさんが言ったことだもの。
- Bさんがqと主張した。
- qは正しくないだろう、だってBさんが言ったことだもの。
と、以上のような判断は論理的かどうか? って話ね。「非論理的に決まってるじゃん」 -- そうなのかな?
内容:
モーダスポネンス
3,4歳の子が「木が葉をゆらすから、風がふくのね」と言った; そんな話を聞いて「なんて可愛らしいだろう」と思いますよね。それと同時に、人間の観測と抽象(法則抽出)能力はたいしたもんだな、とも思います。因果関係は逆転してます*1が、「木が葉をゆらす」現象と「風がふく」現象を同時に観測するという何度かの経験から、「木が葉をゆらす ⇒ 風がふく」という法則を獲得しているのです。記号「⇒」は「ならば」の意味です。
この話には続きがあって、その子は、部屋の窓から外を見て「木の葉がゆれているから、風がふくよ」と言ったそうです。そのとき観測された事実は「木の葉がゆれている」ですが、先の法則「木が葉をゆらす ⇒ 風がふく」を使って、実際には体験できない(部屋のなかにいるのだから)現象「風がふく」を言い当てています。
「p ⇒ q」という法則と事実「p」から、「q」を結論するという推論パターンはモーダスポネンス(modus ponens)と呼ばれています。モーダスポネンスを疑うこと*2は極めて困難です。モーダスポネンスによる推論は認めることにしましょう。
命題とメタ命題
p, qなどは命題を表すとします。「1 + 2 = 3」も命題だし、「1 + 2 = 1」も命題です。命題pが正しいことを |= p と書きます。記号「|=」はダブルターンスタイルと呼ばれるもので、命題に関する命題、つまりメタ命題の一部に使われる記号です。
- |= 「1 + 2 = 3」
これは、
- 命題「1 + 2 = 3」は正しい
というメタ命題です。
- 「命題『1 + 2 = 1』は正しい」は正しくない
はメタメタ命題です。まー、きりがないので、命題とメタ命題くらいを扱うことにします。
なお、ダブルターンスタイルの使い方は「論理を身に付けるには」にもう少し詳しく書いてあります。
発言者で修飾された命題
A, Bなどは人を表すとして、A:p のような記号形式を考えましょう。pは命題です。A:p は、命題pなのですが、それを発言した人Aにより修飾されています。「誰が言ったか」という情報が付加されているんですね。
さて、 “論理的”にいきましょう。誰が言ったかで真偽を判断するなんてもってのほか! あくまでも命題それ自体を見ましょう。というわけで、|= A:p (Aさんが言ったpは正しい)ということを次のように決めましょう。
- |= p ならば、|= A:p
- |= p でないならば、|= A:p でない
要するに、p と A:p の真偽はまったく変わらないのです。発言者Aが付いていようがいまいが関係ありません。いいですよね。
Aさんが言うのだから正しい
やっと準備ができました。話を先に進めましょう。
個々の命題の真偽判定は、発言者に一切の影響を受けないとしても、真なる命題の集合を考えると、発言者との関係が見えてくるかも知れません。α、βなどは発言者付きの命題だとして、命題αの発言者をwho(α)で表しましょう。who(A:p) = A、who(B:q) = B とかです。
かなり極端な例として、次のメタ命題を考えましょう。
- ∀α.( who(α) = A ⇒ |= α )
記号的で分かりにくいですか? 解説しましょ。「∀α.」は「どんな命題αでも」と読んでください。まー、「∀α.」は省略してもいいくらいで、
- who(α) = A ⇒ |= α
だけでも意味は同じです。「⇒」の前は「αの発言者がAさん」ということ、「⇒」の後は「命題αは正しい」ということなので、
- 命題αの発言者がAさん ならば、 命題αは正しい
と読めます。ただし、αは個別の命題ではなくて、「どんな命題でも」という意味が込められていることに注意してください。
いま、A:q という命題があったとすると、who(A:q) = A、つまり発言者はAさんです。それと一般的な法則 who(α) = A ⇒ |= α があるので、|= A:q となります。|= A:q は、|= q のことだったので、|= q ですね。はい、命題qは正しいことがわかりました。この推論を分かりやすく書いてみると:
who(A:q) = A (事実) who(α) = A ⇒ |= α (法則、αは任意) ---------------------------------------------------------[モーダスポネンス] |= A:q ---------------[正しさは発言者に影響されない] |= q
つまり、(ほぼ)すべての人類が認めるモーダスポネンスと、「正しさは発言者に影響されない」という厳しく“論理的”な立場から、qの正しさが推論されたわけです。
「『Aさんが言うのだから正しい』は論理的にまったく正しくない」は正しくない
おわかりでしょうが、上の推論を疑う*3なら、普遍的な法則 who(α) = A ⇒ |= α の部分です。これはつまり、「Aさんは無謬<むびゅう>だ、神様だ」と言っているので、たいていは当てになりません。がしかし、「Aさんの言うことは間違いが少ない」とか「Aさんは信頼できる」とかの仮定が無意味というわけでもありません。
発言者付き命題の真偽に関して、たくさんの観測データが集まると、子供が「木の葉がゆれているから、風がふくよ」と推論したのと同様に、「Aさんが言うのだから正しい」という推論もするだろうし、この推論の根拠は(おおすじにおいて)モーダスポネンスだと言っていいでしょう。
「たかだか有限個の観測データから普遍的な法則を導いてはいけない」なんて言ってしまうと、我々は何もできなくなってしまいます。僕らはいつだって、たかだか有限個の観測データから、しかも比率や傾向性を根拠に推論・判断してるんですから。
そういう事情から、「Aさんが言うのだから正しい」とか「Bさんが言っているから間違いだろう」とかの判断は、論理や科学における論法(reasoning)からまったく解離している、とは言えないですね。
もちろん、「Aさんが言うのだから」という根拠が、古典論理の恒真命題や科学(もちろん通常科学 :-))的法則のような確実性を持つわけではありませんが、日常的説得力なら持つでしょう。危険性を指摘するなら、「Aさんが言うのだから」が論理的真や科学的事実に匹敵するがごとき扱いを受けることでしょう -- ¬∃A.(∀α.(who(α) = A ⇒ |= α))