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参照用 記事

日常論理の数理論理

日常論理とは、我々の生活において、「もっともだ」とか「一理ある」として受け入れられている推論の体系だとしましょう。ムチャクチャな物言いとかトンデモな議論とかは相手にしません。いちおうは「論理」ですからね。

常識的・世間的に「まーまー妥当だ」と言える推論でも、古典論理からみて間違っていることはあります。むしろ、古典論理では間違っているとされる(許容できない)推論が興味の対象です。

タイトルは「日常論理“”数理論理」ではなく、「日常論理“”数理論理」です。つまり、数理論理として日常論理を扱いたいわけです。ただし、数理論理の常套手段が通用しないところもあるので、そこは変更します。それでも、態度・スピリットは数理論理のそれを踏襲します。

日常論理を扱うからといって、人間の認知や行動を分析しようなんて気はサラサラありません。古典論理ではうまく説明できない推論・判断の一部に、多少なりとも説明を与えられればそれでヨシとします。さらに言えば、今手元にある道具で、どこまで説明できるか? それを調べたいのです。

内容:

日常論理の使用例

日常論理には、以前からゆるーく興味を持っていました。過去の記事を掘り起こしてみます。

「Aさんが言うのだから正しい」という真偽判断は論理的なのか? という話題です。古典論理では、情報源とか情報源の信頼性を明示的には扱いません。日常論理では「信頼できる情報源から得た情報は(内容を吟味するまでもなく)正しい」と考えるのは珍しくはないし、さほど悪いことでもないでしょう。

この記事内で、「木が葉をゆらすから、風がふくのね」という子供の詩的な推論を紹介してますが、これも日常論理の重要な事例です。

知り合い二人を観察して「九州の人って髭が濃いよね」と言ってしまうのはどうなの? という話です。二人ではサンプル数が少なすぎますが、幾つかの事例から一般法則を推測するのは普通だし、日常論理としては許容できそうです。

「カラスは黒い」から「黒いはカラス」を導出してよいか? という話題です。別な言い方をすると、∀x.(カラス(x) ⇒ 黒い(x)) が正しいとして、∀x.(黒い(x) ⇒ カラス(x)) も正しいと言えるか? です。古典論理では明らかにダメです。が、日常論理では許されるし、十分役に立っています。

過去記事で扱った推論・判断の事例はいずれも、古典論理では間違いと断定されるか、あるいは扱う範囲外〈out of scope〉とされてしまいます。しかし、我々の心情としては「まんざら間違いとも言えない」のです。であるなら、なんらかの論理システム内では妥当な推論とみなせるかも知れません。そういった「なんらかの論理システム」を見つけたいのです。

蛇足な注意を言っておくと、僕は、詭弁やイチャモンを正当化する気はありません。次の記事に並べている手法(?)は、今話題にしている日常論理ではなくてタチの悪いイイカガリです。

日常論理の特徴

形式化された古典論理と比べてみると、日常論理には次のような特徴があります。

  1. 構文論と意味論の区別がハッキリしない。
  2. 命題〈論理式〉とモデルの区別がハッキリしない。
  3. オブジェクトレベルとメタレベルの区別がハッキリしない。
  4. 古典論理では許されない推論規則を許容している。
  5. 古典論理の一部の論理法則や推論規則が使えない。
  6. 真偽値が二値とは限らない。
  7. 仮定と結論(推論の方向)が明確ではない。
  8. 矛盾があっても深刻な問題ではない。
  9. 命題の真偽や真偽判断の基準が変化する。
  10. 「たぶん‥‥」「まず間違いなく‥‥」のような修飾語を使える。

これじゃー、数理的モデル=形式化された論理システムの構成は無理なような気分になります。が、実際は特に障害にはなりません。「‥‥の区別がハッキリしない」という特徴に関していえば、「‥‥の区別をハッキリさせる」ことは現状のお作法であり、そのお作法を守らないと数理論理が出来ないわけではありません。それ以外の項目は「古典論理とは違うぞ」と言ってるわけで、古典論理じゃないのですから当然です。

古典論理の一部の論理法則や推論規則が使えない」について、2つの事例を挙げます。一つ目は古典論理の含意の概念です。古典論理では、次の論理同値が成立します。

  • A⇒B ≡ ¬A∨B

「AならばB」は「Aでない または B」に置き換えても同じだよ、ってことです。これに違和感をいだく人は多いし、古典論理の鬼門のひとつかも知れません。多くの人が奇妙に感じて受け入れがたいのなら、日常論理では含意の概念は使ってないのでしょう。広い意味の「含意」はあるかも知れませんが、古典論理の含意(否定と連言の組み合わせ)とは別物だと思います。

二つ目は背理法です。シーケントを使って書くとして; A → B (Aを仮定すれば、Bが出る)を示す代わりに A, ¬B → ⊥ (AとBの否定を仮定すれば、矛盾が出る)を示してもいい、ってのが背理法の原理です。が、これも納得しがたい人が多い。日常論理ではおそらく使えない手法なのでしょう。Aの否定を A⇒⊥ で代用したりするのも無理です。

事実と意見を区別?

「事実と意見を区別しましょう」と、小学校の頃から言われていた気がします。けど、事実と意見を区別するって、ホントにできるんですかね。事実ってのがよく分からない。事実と思っていることが他人の意見の集積かも知れません。客観的知識と勝手な思い込みの区別だって難しいですよね。

名目上は「事実と意見」の区別はできるでしょう。例えば「これは私見ですが‥‥」とでもことわれば意見の表明だと分かるでしょう。が、実体としての区別は難しい、ひょっとするとそんな区別なんてないのかも知れません。

我々は、すべてのことを直接体験することは出来ません。伝聞からの情報も事実とみなしています。誰かの発言、つまり意見を事実とみなすわけです。直接体験にしろ、なんらかの観測装置(人間の感覚器官も含める)を通じて情報を得ているわけで、それが“現実の真の姿”(そんなものがあるとして)と保証はできません。

“誰かの発言・意見・主張”と、“この世の真実を”を明確に区別することは出来ません。となると、客観的事実と主観的思い込みを明確に区別することも出来ません。

おそらく日常論理とは、これらの事情を踏まえて、結論の精度を要求しない論理になっているのだと思います。

「事実と意見を区別できない」としても、この意見は事実とみなそうとか、あの主張は疑わしいから検証対象とみなそうとかはしています。絶対的な区別は無理でも、みなすことは出来ます。この「みなしの行為」がとても大事だと思います。

どんな道具でアプローチするのか

冒頭で「今手元にある道具で、どこまで説明できるか? それを調べたいのです。」と書きました。手元にある道具とは何かというと、「ベイズ確率論とデータベース理論の統合: カップル化可能圏」で述べたカップル化可能圏と、それに対する絵図〈diagram | graphics | picture〉・絵算=絵図計算〈{diagrammatic | graphical | pictorial} {calculus | computation}〉が主たる道具です。

カリー/ハワード/ランベック対応の処方箋に従えば、カップル化可能圏から論理計算(シーケント計算/自然演繹)のシステムを得ることは出来ます。カップル化可能圏が半コンパクト構造(コンパクト閉構造を弱めたもの)とダガー構造を持つことから、幾分かは線形代数の計算とも似ています。この計算システム(仮称・カップリング計算)の計算を、日常論理の計算と解釈することが(ある程度は)可能だろうと思っています。

カップル化可能圏/カップリング計算の目的は、ベイズ確率の計算とデータベースの計算を想定していたのですが、日常論理の計算にも(ある程度は)使える気がしてきたのですわ。