僕の場合、育児をがんばったというよりは幼い子供達に依存した生活をしていた、と言うべきでしょう。だから、子供達がおおきくなるのが寂しい、なんか喪失感があります。
そんな状況なので、ひげぽんさんのこの記事とか読むと、妬ましくてムキーッとなってしまいますよ。ある時期の子供って、個体差の激しい独自のボキャブラリを持っていて、それを探るのは楽しいですよね。
今は「コンパクトに」とか「ロコモティブだ」とか言っている次男も、5年半前だと、「カルピス」を「ピクルス」、「久しぶり」を「おしゃべり」とか間違えてました。それよりもう少し前は、さらに独自ボキャブラリの世界で、「ブジンでチャママ着る」とか「オドコリって、赤とモリリだね」とか、にわかには意味不明の発言*1:
- ブジン → 自分
- チャママ → パジャマ
- オドコリ → 踊り子(電車)
- モリリ → 緑
それよりさらに前の喃語<なんご>の時期は、親が勝手に解釈していたんでしょうね。明らかにdenotationがあるなと確信したのは、「ナー」が猫のときだったかな。
*1:[追記]そういえば、新幹線を「カーサンセン」と呼んでいたな>次男。今ふと思い出した。[/追記]