二十年とかもっと前のことですが、僕は次のような発言(つっても単なるオシャベリ)をしたことがあります。
- 九州の人って髭が濃いよね。
なんでそんなことを今でも憶えているかというと、言った直後に「あー、自分は間違ったことを言ってるな」と意識し、その瞬間の印象が強く残ったのです。間違った推論について考えるとき、最初に思い起こす実例なのです。
僕が「九州の人って髭が濃いよね」と言った根拠は:
- 知り合いのAは、福岡県出身で髭が濃い。
- 知り合いのBは、大分県出身で髭が濃い。
この2つの事実です。
少数事例から一般法則を導く -- こういうタイプの認識とか推論は、僕だけじゃなくて多くの人が行います。古典論理の立場からいうと「間違い」なんですが、多くの人が使っているし、それが通用する場面もあるということは、人間にとってなにかしらの「自然さ」があるように思えます。
「自然だ」とは、このテの認識/推論による言明を言ってるほうも聞いたほうも、特に違和感なく済ましてしまうケースが多々ある、と、まーそんなことです。
記述の道具として古典論理を使うことにして(あくまで記述のためね)、k(x) は「xは九州出身」、h(x) は「xは髭が濃い」を意味するとします。確認されている事実は、
- k(A)∧h(A)
- k(B)∧h(B)
この2つです。それから次を結論しているわけ。
- ∀x.(k(x)⊃h(x))
「∀x」は全称記号で「任意のx=誰でも」を意味し、「⊃」は含意記号で「ならば」の意味です。さらに、「推論で導くことができる」を意味するメタ記号「|-」を使うと、我々は次のタイプのメタな言明を受け入れることもある、ということです。
- k(A)∧h(A), k(B)∧h(B) |- ∀x.(k(x)⊃h(x))
もちろん、古典論理(その他多くの論理でも)これは間違いです。が、「間違いだ」ということが論点ではなくて、これを正当化するような“自然な論理”とはいったいどういうものだろう、ということです。別な言い方をすると、この認識/推論を多くの人が多くの場面でする(と僕には思える)、その背後のメカニズムは何だろう? と疑問なのですよ。
これって、説明がつくのでしょうか?*1
[追記]sumiiさんが書いておられる例も、日常の判断や推論が古典論理の含意にはなってない例ですよね。でも、これは解釈が難しいな。「高速道路で急ブレーキをかけるとき」が含意の前提なのかどうかわからないし、その否定は「高速道路では急ブレーキをかけない」なのか? 印象としては、引っかけ問題みたいで釈然としません。[/追記]
*1:自分なりに考えたことはありますが、納得できる説明は思いつきませんでした。