平成のアリストテレス/博学の王・南堂久史さん(と勝手にキャッチコピー付けてみました)の解説「シュレーディンガーの猫の核心」に対して、nucさんが「シュレディンガーの猫」なるエントリーを書かれました。
昨日のエントリーより引用:
しかしながら、これを読んでみて、nucさんも僕も、南堂さんには“かなわない”なー、という気分もしました。それはどういうことかと言うと … ウーン、時間がない、明日とか。
で、続きです。
●理解した気分になったほうが嬉しい
id:mindさんの、「いいセンいってる南堂久史さん」へのブックマーク・コメントが大変に示唆的:
我々は理解するよりも、理解した気分になったほうが嬉しいですから。 さらに面白ければ2倍トク。
この「理解した気分」の取り扱いが非常に厄介でして、僕もホントに悩まされていることなんですよ。
●比喩の功罪
誰か(ファインマンだったかな?)が、量子力学的現象に対しては、いかなる比喩も通用しないし、比喩(アナロジー)で考えるべきではない、ってなことを言っていたと思います。nucさんの説明にも:
量子力学的な確率が古典的な確率と「全く違う」ことを言わなきゃいけなくて、そのためには純粋状態と混合状態の説明をするしかない。
量子力学の予言する現象を直感的に理解するのは非常に難しい。これは実にしかたがないことだ。
と。こういう正しい説明を読むと、「うーん、なんだかよくわからねーな」となり、“わかった気分”はしないでしょう。
でも、ここで是非に注意して欲しい点は、“わかった気分”がしなくても、実は理解・認識がちゃんと前進していること。「量子力学的な確率が古典的な確率と全く違う」という言明は、“わかった気分”に直結しないけれど、「量子力学的な確率」の知識を確実に増加させていますよね。
つまり、“わかった気分”がしない状態を、ある期間だけ我慢することも必要なのかな、と思うのです。本質をはずした(真実から遠く隔たった)比喩で“わかった気分”を手に入れるよりは、そのほうが近道のときもあるようです。
●理解への心理的障壁を取り除く方便
「シュレディンガーの猫」に限らない一般的なことですが; 「奇妙な比喩で説明するのは止めろ!」で話が済めばいいのだけど、実際にはそうもいかんのですよ。というのも、“わかった気分”の意義を否定できないからです。事前に“わかった気分”を手に入れることは、次のステップに進むための大きな力になります。
別の言い方をすると、“わからなそう”、“むずかしそう”という気分が心理的な障壁となって理解(むしろ、理解しようとする行為)を阻害しているケースも見受けられます。そんなときは、方便を使ってでも障壁を取り除く工夫が有効かもしれません。
南堂さんは(とりあえず内容を度外視して)、比喩をふんだんに使い、物語と自己主張を織り交ぜたオハナシの語り手であり、方便の(過剰な)使い手なわけです。方便使いの技量において、南堂さんは、nucさんや僕が太刀打ちできない地点にいます。
●正しさだけでは対抗できないツラサ
僕自身は、「わかった気分にさせるためには手段を選ばん」という芸人的無節操さも相当に持ち合わせているのですけど、一方で、方便が本質をはずしてしまっては元も子もない、という恐れもいだきます。ジレンマじゃ。
南堂さんがあれだけウケるのは、わかった気分にさせるワザの使い手だからです(もちろん、内容は間違ってますが)。それに対抗するには、単に正しいことを述べるだけではなくて、同程度にわかった気分にさせる解説が必要になります -- それって、もはやミッション・インポッシブルだよなー。