ソフトウェアの設計は僕の仕事の一部なんだけど、モデリングとか高水準の設計手法とかに興味がない。いや、正確に言うと、そのテの手法とか流儀とかには、僕を苛立たせるものがあって、精神衛生のために避けている傾向があるってことです。
参照の必要があって、モデリングや設計手法の情報をWebや書籍で調べると、たいていはイライラしてきて最後まで読みきれず、腹を立てて放り投げてしまいますね。
なんでか?と言うと、僕が嫌いな「悟り」や「ヒラメキ」の要素が含まれることがあるからです。「最初は意味不明でも、我慢しているとある日わかってしまう」ような体験 -- それを想定しているような説明がほんとに嫌いなんです。「ある日わかってしまう」経験は僕にもあります。でも、それは僕の能力が足りないからです。つまり、本来なら分かるはずのものが「理解力の不足ゆえに分かってなかった」という事実があるだけ、「遅れて理解した」という事実があるだけです。
説明する側が「悟り」や「ヒラメキ」に頼るのはダメだと思うのですよ。明白・明確には説明ができないような事項もこの世にはあるでしょうが、少なくとも科学/技術的な内容は明確に記述・説明できるだろうし、そうすべきです。(と、こういう僕の心情と傾向性から、例えば郡司ペギオ-幸夫さんを不快に感じるのでしょう。)
一部のモデリングや設計手法の説明は、比喩や事例による曖昧な表現を積み重ね、あとは経験のなかで掴みとってください、と。頻出する文言は、「…のようなものです」「…とも言えるでしょう」「…ではありません」「…と誤解してはいけません」「…と考えてもかまいません」 -- 説明の方便ならともかく、説明の本質がそれではワカランよ。「未定義概念を導入する事*1」と「定義をろくにしない事」は別だし、「抽象度を上げる事」と「曖昧にしか語らない事」は別だし、「未解決な問題だと述べる事」と「問題を定式化してない事」は別。
奥のほうには深ーい思想があるのかもしれませんが、浅薄でもいいから僕はハッキリとした定式化が欲しいですね。明文化された説明は、経験を(ある程度は)スキップできるご利益があるべきだし、手法/方法論は「悟り」や「ヒラメキ」を不要にするから有難いわけですから。