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「言わないとやらない」の対偶について

古典論理では、命題「Pでない ならば Qでない」の対偶である「Q ならば P」は、もとの命題と同値であり意味は変わらないとされます。

しかし、対偶命題がもとの命題と同値なことは日常直感と合わない、とも言われます。そのとき出される実例のひとつに「言わないとやらない」があります。「言わないとやらない(言わない ならば やらない)」の対偶をとると「やると言う(やる ならば 言う)」ですが、意味が変わっているだろう、というわけです。

ほんとに意味が変わってますかね? なんか奇妙ですか?

「意味が変わっている」、「なんか奇妙だ」と感じるとしたら、それは連想する情景を含めて考えているせいじゃないでしょうか。人により連想する情景は違うでしょうが、典型的な連想は、お母さんが子供に小言を言っているような場面でしょう。

  • 母親:「早く宿題をやりなさい。あんたは言わないとやらないんだから。」
  • 子供:「わかったよー、今やろうとしていたのにぃ。」

この情景・場面を想定して「やると言う」を解釈すると、「子供が宿題をやると、お母さんが小言を言う」となります。これじゃ理不尽だろう、子供がかわいそうだろう、となります。

現実世界は、時間が経過したり、事象間の因果関係があったりと複雑です。古典論理の対偶の話は、そんな複雑な現実世界に適用できるものではありません。話をもっと単純化して考えるべきです。

「母親 $`M`$ が子供 $`C`$ に『宿題をやりなさい』と言う」という文を記号的に $`\mathrm{Say}(M, C)`$ としましょう。「子供 $`C`$ が宿題をやる」という文は $`\mathrm{Do}(C)`$ とします。そうすると、上記の情景・場面における「言わないとやらない」の解釈は次の命題(論理式)になります。

$`\quad \lnot \mathrm{Say}(M, C) \implies \lnot \mathrm{Do}(C)`$

現実世界では、$`\mathrm{Say}(M, C)`$ がキッカケ(原因)になって $`\mathrm{Do}(C)`$ が(結果として)引き起こされるという、時間経過と因果関係が入っています。古典論理の含意命題には時間経過や因果関係は入ってないのです。

上記命題を(古典論理の観点からは)意味を変えずに書き換えると:

$`\quad \mathrm{Say}(M, C) \lor \lnot \mathrm{Do}(C)`$

つまり、

  母親 $`M`$ が子供 $`C`$ に「宿題をやりなさい」と言うか、または、子供 $`C`$ が宿題をやらない。

ということです。時間経過も因果関係もありません。

対偶をとると:

$`\quad \mathrm{Do}(C) \implies \mathrm{Say}(M, C)`$

つまり、

  子供 $`C`$ が宿題をやる ならば 母親 $`M`$ が子供 $`C`$ に「宿題をやりなさい」と言う。

です。

このての命題は、時間経過や因果関係を抜いて解釈するのが難しいのですが、「子供 $`C`$ が宿題をやる」が事実ならば、「母親 $`M`$ が子供 $`C`$ に『宿題をやりなさい』と言う」も事実だと推論(正確に言えば演繹的推論)してよい、ということです。

例えば、お父さんが宿題をしている子供の姿を見たとします。このとき、「うちの子は言わないとやらないからな」という前提から「母親が言った」と推論するのは、古典論理的には妥当だということになります。

古典論理の対偶の法則は、古典論理のなかでは通用するのですが、時間経過や因果関係がある現実世界に無理に当てはめると奇妙なことになります。それは、古典論理が間違っているのではなくて、うまく適用できない場面に古典論理を当てはめるのが間違っているのです。