菊池誠教授が出演したテレビ番組「視点・論点『まん延するニセ科学』」がYouTubeで公開されています。「NHKがYoutubeに削除申請をするかもしれない」ということでf_iryo1さんが文章に起こしてもいます。
この菊池さんの主張に対する2ちゃんねるコメント(の一部)が「痛いニュース(ノ∀`)」にまとめられていたのですが、そのなかで次のコメント(621番)が気になりました。
自分たちの科学知識で検証できないからと言って、「ニセ科学」を全部ウソと言ってしまうことも非科学的な態度だ
この先、科学的に実証出来るようになるかも知れないじゃん
今のところは実証できてないのでウソかもしれませんよって言うのに留めておくべき
やっぱり出たか、これ。(グンニャリ)
このコメントの言い分は、これだけを(文脈から切り離して)取り出すとまっとうなんですが、菊池さんが取り上げているようなニセ科学に対してこんなこと言っちゃダメなんですよ。なんでダメかってのを説明するには、「科学的」とか「実証」とかの言葉を詮索する必要があります。話を単純にするために、もとの文脈を狭めて、対象は江本“水伝”理論に限定します(2chコメント621の人が水伝を想定してなかったとしても)。
2chコメント621さんが「科学的に実証出来るようになるかも知れない」と言っているのは、現状においては江本理論は絶対的に否定(反駁)はされてないことが暗黙の前提に入っています。あるいは、今は否定されていてもいつの日かひっくり返るかもしれない、と。未来のことはわからないから、江本理論が正しくなる可能性も50%だ、と。たぶん、そんな感じでしょう。ガリレオの「それでも地球は動く」とか、「ニュートン力学も厳密には正しくなかった」とかの歴史的逸話が背景にあるのかもしれません。
でも違うのです。そうじゃない。フィフティ・フィフティなんかじゃないのです。
この後の内容:
- 両立不可能な2つの理論とは
- 現代の通常科学と江本“水伝”理論は両立不可能である
- それでも説得できない人もいる
●両立不可能な2つの理論とは
いま、理論Aと理論Bという2つの理論があったとしましょう(Aが通常科学、Bが江本理論でもいいですよ*1)。理論とは、言明の集まりです。言明とは、なにごとかについてハッキリと述べた文です*2。まずは、理論Aと理論Bの正しさを一切問わないことにします。いいですか、どっちが正しいなんてことは問題にしないのですよ!
正しさをまったく度外視しても、次の問題を考えることはできます。
- 理論Aと理論Bは両立するか?
いつでもこの問題に答えられるとは保証しませんが、YES(両立する)またはNO(両立しない、両立不可能)と確実に答えられるケースもあります。
ここで「両立不可能」*3の意味をもう少し詳しく見てみます。AとBが両立不可能とは:
- 仮に(あくまでも仮に!)AとBの両方が正しいとすると、不都合が起きる
ことです*4。
さらに、「不都合が起きる」を説明しましょう。理論Aに最初から含まれる言明以外に、理論Aに含まれる言明から確実に推論できる言明を付け足して理論Aをドンドン膨らまします。理論Bも同様にして膨らまします。この“膨らまし”の過程で付け足される言明を「理論A/理論Bから導かれる言明」と呼びましょう。最初から含まれる言明も(表現としては不正確になりますが)面倒だから「導かれる言明」と呼んでもいいとします。
で、「不都合が起きる」とは:
- 理論Aから導かれる言明Pと理論Bから導かれる言明Qで、PがQの否定(QがPの否定といっても同じ)になっているものがある。
要するに、理論Aを前提にすれば「Pだ」と言えるが、理論Bを前提にすれば「Pじゃない」(「Pじゃない」がPの否定、つまりQ)と言えるわけです。つまり、理論Aと理論Bは、どうやっても折り合いを付けられないのです。そんなときは「両立不可能」と呼びましょう。
理論Aと理論Bのどっちが正しいかまったく分からない(あるいは問題にしない)状況でも、これら2つの理論が両立不可能ならば、次のことは確実に言えます。
- 理論Aと理論Bの両方が同時に正しいことはあり得ない。
もう少し噛み砕いて言えば:
- もし理論Aが正しいなら、理論Bは必然的に間違っている。
- もし理論Bが正しいなら、理論Aは必然的に間違っている。
- 理論Aと理論Bのどちらも間違っている可能性は残る。
- 理論Aと理論Bのどちらか一方を(間違いの可能性を承知で)採用することは合理的だが、理論Aと理論Bを同時に採用することはまったく不合理である。
●現代の通常科学と江本“水伝”理論は両立不可能である
江本理論が現代の通常科学と両立不可能であることは、田崎さんの論説「『水からの伝言』を信じないでください」の7節に述べられています。詳細な説明「『水からの伝言』が事実でないというためには、実験で確かめなくてはいけないのでは?」も読まれることをお勧め。
江本理論の言明「水は言葉に反応する」を仮定すると、例えば、実験用の蒸留水の瓶に貼られているラベルの文言にも反応するだろうし、水の保管場所や実験室の壁のポスターやらカレンダーやらの文言にも反応しますよね。その他、言葉のメッセージはありとあらゆる場所に存在しますから、実験は無視できない膨大な量の雑音の影響を受けることになり、水を使った実験が一定値を示すことは期待できなくなります。
が、極めて注意深く行われた実験(ただし、言葉のメッセージの影響は考慮されてない)や、工業的実践、その実践から生まれた製品などに、言葉のメッセージによる影響の痕跡はありません。
すぐ上の2つの段落で述べたことをもう少し整理すると:
- 言明「水は言葉に反応する」の正しさはとりあえず棚上げする。
- この言明から、「水を使った実験/実践が言葉の影響を受ける」が導かれる。
- 現代の通常科学は、明確に「水を使った実験/実践が言葉の影響を受けない」と主張してないにしろ、それを当然の前提としている。
- よって、現代の通常科学と江本理論は両立不可能である。
さて、2つの理論が両立不可能だとしても、それは正しさとは独立な話でした。我々の選択として、どちらかを、どちらか一方だけを採用しなくてはなりません(2つとも拒否する道もあるが)。江本理論を採用し、現代の通常科学の成果の上に築かれた工学、工業、物質文明に対して、今の説明とは別な首尾一貫した体系を提示できるでしょうか? できそうにないですよね。それが、両立不可能な2つの理論の片方(通常科学)を採用する理由です。
●それでも説得できない人もいる
僕の感覚では、携帯電話、電子レンジ、コンピュータ、自動車、飛行機などが実在することを承知していて、それらの原理としては通常科学を認めながら、通常科学とは両立不可能な理論もまた受け入れる、というのがどうにもワカランのですが、心理的にはチャンと両立しちゃう人がいるのも事実のようです。
僕が理解できる感覚は、科学的合理性とは別な「救い」とか「安心感」とか「癒やし」とか、そういうものです。例えば、死ぬのは恐いから死後の世界を想定したほうが安心できる、とかですね。ただし、これはもう全然ハナシが別! でしょう。
菊池さんが強調しているように、科学は躾や道徳とは別ですし、その他諸々の「救い」「安心感」「癒やし」とも別です。「別なハナシを一緒にしちゃダメだ」ってのを最初のルールにしないと、「理論の両立不可能性」なんて御託を述べてもたいした効果はないでしょうね。(最初のルール以前のハナシは僕の手に余る。お手上げ。)