昨日のエントリーへのコメントに対する僕の応答、言い足りなかった点への補足、それと関連する雑談を混ぜて話します(混ぜるとまた長くなるのだけど…エントリー分けるのが面倒で)。
コメントはいずれも示唆的であり、議論は完結している感じです。その点で、このエントリーは蛇足なんですが、通り2さんの非常に的確な指摘「『ニセ科学』という曖昧な表現で、色々なものを括ってしまってる為、何を議論しているのかが不明瞭ように思います。」に少しは応えたいとも思いまして。
内容:
- しょうもない説と異端の説
- 僕は“しょうもない説”を話題にしたかった
- 個人的な趣味について言えば
●しょうもない説と異端の説
まず、言葉使いの話からはじめます。
『トンデモ科学の見破りかた -もしかしたら本当かもしれない9つの奇説』という本で著者・ロバート・アーリックが、「デタラメな(nutty)考え」と「トンデモない(crazy)考え」を区別しています(ただし、主観的・恣意的な判断が入り込む)。ここで、「トンデモない=クレージー」のほうは必ずしも否定的な意味ではないのです(僕は、「クレージー」は賞賛の言葉に使います)。
なぜ、デタラメとトンデモを区別するか; この本が扱っているトンデモ説は、サブタイトルからも分かるように、真性ニセ科学ではありません。通常科学に含まれるものです。現代の科学の土俵に乗ってはいるのだけど、激しく反対されたり物議をかもしている理論/学説がネタです。科学の土俵に乗らない理論/学説はデタラメだとして、この本の話題にはしてないのです。
- デタラメな、いかれた、しょうもない説 : そもそも科学ではない。議論するに値しない。
- トンデモな、クレイジーな、異端の説 : 科学のなかで議論できるが、現在は主流ではない説。
ちなみに、ロバート・アーリックが、トンデモ度ゼロ(そうであってもおかしくない)、トンデモ度一(おそらく真実ではないだろうが、誰にもわからない)に分類している異端の説は:
“しょうもない(デタラメ)説”と“異端の(トンデモ)説”の境界は曖昧ですが、それでもこの2つは区別すべきでしょう。というのも、異端の説を擁護する議論を、しょうもない説にも適用すべきではないと思うからです。
●僕は“しょうもない説”を話題にしたかった
以下、いただいたコメントの文章を、説明の都合にあわせて順序を変えて引用します。ご了承下さい。
khwarizmiさん:
元の菊池先生の話の中では直接否定したり肯定したりするよりもコメント621的な態度をとるほうが「科学的な誠実さ」だと言ってるように読めます.(マイナスイオンのくだり)Stevさん:
水伝が間違っていることは、たぶん621番にも異論はないだろう。そうじゃなくて、もっと一般的なことを言ってるんだと思うけど。
一般的な文脈では、コメント621さんの態度はもっともだと思います。特に、異端の説に関しては、主流じゃないことを理由に否定はできません。後に主流になる説も、最初は異端であるケースも多いわけですから。
ですが、僕が言いたかったのは、しょうもない説までも異端の説扱いするのは止めてほしい、ということです。(異端の説の扱いも含めた)一般論でないことは、いちおう注意したつもりです。
檜山:
もとの文脈を狭めて、対象は江本“水伝”理論に限定します(2chコメント621の人が水伝を想定してなかったとしても)。
ただし、
檜山:
このコメント[注:621番]の言い分は、これだけを(文脈から切り離して)取り出すとまっとうなんですが、菊池さんが取り上げているようなニセ科学に対してこんなこと言っちゃダメなんですよ。
の「菊池さんが取り上げているようなニセ科学」のなかにも異端の説がある可能性を考慮すべきだったと思います(通り2さんご指摘のとおりです)。
Stevさん:
まったく正しいけれど、621番を完全に納得させられるものではないんじゃないかな。水伝に絞って話を進めてる時点でね。
僕の目的は実在する人物としての621番さんを完全に納得させることではなくて、典型的なしょうもない説である水伝に絞って話を進め、それが異端の説ではないことを示したかったのです(そう思い立ったキッカケは621番さんのコメントですが、若干脊髄反射入っていたかも)。見出しに「真性ニセ科学」という言葉を使ったのも、異端の説ではない論外な非科学の意味を強調したかったのです。
そもそも、しょうもない説と異端の説を(なんとなくでも)区別できる人には、僕が言うべき事はありません。
khwarizmiさん:
そういう意味では今の科学のフレームワークではっきり間違っていると言いきれる水伝は疑似科学の中では少数派(まあ,物理系の疑似科学はたいていはっきり間違っていると証明可能ではありますが)で,その少数派にたいする戦略を疑似科学全部に対して適用するのは危険なんじゃないかと思ったりするのですがどうでしょう?
僕は、両立不可能性の議論を「疑似科学全部に対して適用」する気はまったくありません(どうせ出来ないし)。おそらく、「疑似科学」「ニセ科学」という言葉に、異端の説も含めている人が多いと思うのですが、僕が標的にしているのは、異端の説ではありません。はっきりと間違っている“しょうもない説”に、異端の説を擁護する論法を適用すべきではない、と言いたいのです。
物理や化学の個別的知識に訴えなくても、しょうもない説だと分かるケースもあるわけですよ(その例として江本“水伝”理論を取り上げた)。そんなしょうもない説を、“将来は主流になる可能性もある異端の説”かのごとく扱うのは、あまりにもトンチンカンだ! それと、真実である可能性が非常に低い説も「間違いとは断言できない」と言ってしまうと、フィフティ・フィフティだと解釈する人が多いのにもウンザリ。
●個人的な趣味について言えば
僕は、異端の説に心ひかれます。好奇心を刺激されてワクワクしますよね。ペンローズなんて、けっこうクレイジー方向にいっちゃってるけど面白い。
それと、ニセ科学の王道つうか、もう徹底的にしょうもない説も好きです。例えば、第2回日本トンデモ本大賞を受けた植物おじさん三上さん(故人)とか、愛すべき好人物の印象をうけます。楽しいよねー。
さて、僕が江本勝さんに対しては強く批判的なのは、彼は偽物のトンデモさんだからです。ここで、偽物と言っているのは、本物のトンデモさん(あるいはクレージーさん)は「自説を確信している」はずですが、江本さんは「自説が真実であるはずがない」と理解できる程度には聡明で冷静です。江本理論は、詐欺的ビジネスの手段。やっていることが、トンデモ的価値観から言えば不純/邪悪なんですよね(「詐欺師・江本勝さんの言うことを信じないでください」を参照)。
それと、(江本さんだけの責任ではないだろうが)教育の場に水伝が入った段階で、道(トンデモ道か?)を踏み外してますよ。「自説を確信している」人が、その啓蒙・普及(?)のために本を書くのは、特に責めるべきことじゃないし、僕みたいに、好奇心と酔狂から興味を持って楽しむ人間もいますけどね、相手が子供/学校になるとハナシは別。学校で水伝なんて、そりゃ許されない。