はい、ハマってます:
スピヴァックの関手的データモデルに触れて、しみじみ思いましたよ; 世の中には見通せる人と見通せない人がいるんだな、と。具体的に言えば、見通せる人=スピヴァック、見通せない人=檜山 です。
2つのデータベーステーブルのジョイン(等値性によるジョイン)がファイバー積(pullback図式)であることは、随分と以前から知っていました。何人かの人は、それを僕が口頭で吹聴していたことを知っているでしょう。しかし僕は、これを個別的・散発的なちょっと面白い事例くらいにしか考えてなかったのです。
極めて一般的な包括的原理のなかで、この事例を位置付けることは出来なかったのです。それどころか、そもそも包括的原理の存在に思い至ることさえ出来ませんでした。スピヴァックに指摘された後 -- 今になってみれば、状況証拠は色々あったよなー、と遅まきに気付いたりはするんですが。
例えて言えば、見通せない人である僕は、自分が居る場所の周囲2,3メールの範囲を観測しているだけ。一方、見通せる人であるスピヴァックは、上空千メートルくらいからの俯瞰的な景色を眺めていたのですね。彼の場合、ズームインすればミクロン単位の分解能を有するレンズまで所有しているので、まったくもって「お見通し」ですがね。
スピヴァックのような千里眼は望むべくもないので、僕は相変わらず周囲2,3メールを見渡していますが、それでも、彼が上空からの景観を報告してくれたおかげで、自分がどこに居るのかの土地勘を少しは得たように思えます。近隣を観察する見方も変わりました。そうですねぇ、同じ景色もずっと楽しく見られるようになった、そんな感じでしょうか。見通せない僕も、見通せる人の恩恵に十分あずかってます。