菊池誠さんがしばしば強調している「道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない」に対して、「道徳やしつけの根拠は自然科学にある」と弾さん:
今や自然科学者にとって金科玉条となっている[注:菊池さんの]この文言は、その一方で自然科学者の怠慢の証拠でもあると言ったら言い過ぎだろうか?
言い過ぎでしょう。
もちろん、私は自然科学者が道徳やしつけを設計せよ、と言っているわけではない。しかし少なくとも道徳やしつけの設計を、自然科学の目で「査読」し、そして道徳やしつけの「設計者」たちの自然科学に対する理解を新鮮かつ的確に保っておくのも、義務とまではいわぬとも業務の一部なのではないだろうか?
という一般的な指摘には同意しますが、その具体的事例である(強調は檜山)
しかし「一般人に対する説明」は[注:科学的反証とは]違うのだ。「それでは何を信じたらいいのですか?」という質問にまで答えてあげないと、答えたことにならないのだ。「水からの伝言を信じるな」というのは、だから説明責任の半分しか果たしていない。そこで「誰からの伝言なら信じてもよさそうだ」ということまで伝えてはじめて一般人は「納得」するのだ。
となると、これは無茶な要求です。「偽物の代わりに『使って安心』な本物を与えなければならない」とのことですが、このケース(偽物=水からの伝言)の代わりとなる本物ってなんでしょうか、科学者が与えることができるようなシロモノでしょうか。
通常科学の主たる仕事は、この現象世界に対して整合的で経済的(できるだけ単純)な説明を与え、できるだけ包括的かつ正確な予測手段を提供することです。しかし、ニセ科学を信じる人の多く(全部とは言わない)は、通常科学に替わる「説明と予測の手段」としてニセ科学に期待を寄せているわけではないでしょう。通常科学にはない(つまり通常科学とは無縁な)別な御利益を期待しているようです。
通常科学が答をだしてくれない、それどころか言及さえもしない問<とい>に、断定的な答を欲しているように思えます。例えば:
- 人生、いかに生きるべきか?
- 死んだらどうなる?
- 神様はいるのか?
- 自分はなんでモテないのか?
このテの問を引き受けるのは、たぶん宗教やら(アカデミズムとは別な)人生哲学やらの業界のような気がします。アカデミックな科学から答が出てくるとは思えません*1。
その点、江本勝さんは、ここらへんのニーズにちゃんと応えます。『水は答えを知っている』プロローグに曰く:
だれもがこのアリ地獄のような世界の中で、救いを求めています。だれもが答えを求めているのです。その一言で世界が救われるような、シンプルで決定的な答えを、探しつづけているのです。
と。そしてその答を自分(江本さん)は提供できる、と。
江本勝さんは、自分自身を宗教業界のなかに位置付けることを嫌がっているようですが、宗教法人・江本教になってくれたら、僕も(ニセ科学の文脈で)批判的なことを言うのやめるでしょう。江本さん、もう教祖になってよ。
*1:村上和雄さんなどは、科学の立場から答を出そうと試みているのかも知れません(「村上和雄さんは、どの程度アレなのか」参照)。しかし、大多数の職業的科学者の態度は村上さんとは違うでしょう。