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参照用 記事

江本“水伝”勝 vs リチャード“利己的遺伝子”ドーキンス

ニセ科学に関連した僕のエントリーに、リチャード・ドーキンスおよびドーキンス理論を引き合いに出したコメントが2つ付いてます。ドーキンスを好きな方は随分いるみたいですね。僕自身は、ドーキンス理論の通俗的要約以上の知識を持っていません。それも、「利己的遺伝子」なる語の安易な使用(誤用)を指摘された後でWikipediaを眺めてみた、という程度。当然ながら、ドーキンス理論そのものについて云々できるわけもなく、そうする気もありません。*1

ここで話題にするのは、suikyojinさんのコメントに触発されて、僕が考えたフィクションのことです。(suikyojinさんのコメント自体は、情報提供的なものです。)そのフィクションとは、「もし、江本勝さんがドーキンスを引用したならば」という仮定に基づくオハナシです。なお、stanabeさんによるもうひとつのコメントは、神様が絡んでいたりしてヤヤコシイので、また別な機会に話題とさせていただきます(完全無保証)。

もし、江本勝さんがドーキンスを引用したならば

コメントが付けられた当該のエントリー(「科学はあなたを救ってくれない」「ニセ科学は『バグのあるモジュール』なんかじゃない」)の内容は、きくちさんの「道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない」という主張に対して、小飼弾さんが「道徳やしつけの根拠は自然科学にある」と珍妙な説を提示したので、「弾さん、それはないだろよ」ってなことです。しかし、もとをただせば、「道徳やしつけの根拠を自然科学に求める」ごとき事をやっているのは水の詐欺師・江本勝さんです。

その江本“水伝”勝さんは、自説の権威付けに、アインシュタインユング、ボーム、そして村上和雄さんなどを利用しています(「雲消さないゲーム」「村上和雄さんのSomething Greatは誤用・悪用されかねない」参照)。彼なら、ドーキンスの利己的遺伝子説も利用しそうです。あり得るフィクションとして、江本さんが言いそうなことを想像してみました。

一部の遅れた科学者は、「道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない」などと主張していますが、既に海外では、道徳やしつけの根拠を求める科学がリッパな学問として確立されつつあるのです。
著名な科学者であるリチャード・ドーキンスは、人間の道徳的行為の根拠を科学的に説明しています。ドーキンスは、生物学のレベルでの説明を与えていますが、より根元へと遡れば化学的、物理的に、「道徳やしつけの根拠」が明らかになることでしょう。道徳やしつけの根拠を自然科学により解明する探求は、決して途方もないことではなくて、むしろ自然なことであり、今後より一層発展する科学の一分野なのです。

どこがおかしいのだろうか

この架空の江本発言(江本文体をうまく真似できてませんが)、それなりに説得力があるでしょ。でも、違和感を感じる人も多いでしょうね。どこらへんがおかいいのでしょうか。

まず、「遅れた科学者」とか「海外では」みたいな印象誘導が混じってますが、それは不問にします。現象の説明が、生物→化学→物理と還元されるという仮定を、暗黙かつ不当に利用してますが、まー、これも今は置いときましょう。一番タチが悪そうなのは、「根拠」という言葉の意味のすり替えです。曖昧語(多義語)の意味を、本来意図された意味とは別な意味に再解釈(すり替え、ズラシ)して議論を続けるトリックは、非常によく見かけるものです。

人間も含めた生物の、道徳的/利他的(にみえる)行動を、ドーキンス理論が遺伝子レベルのメカニズムから説明したとき、確かにそれは、「道徳の根拠が生物学で説明できた」と言えるでしょう。そのときの「根拠」とは、“現象を説明する原理”といった意味です。

もっと詳しく言うと、ドーキンス理論を説明の原理(公理)として採用し、推論を積み重ねると、実際に観測される生物の行動(の一部)をうまく説明する結論を導出できる、ということです。つまり、「根拠」とは、演繹<えんえき>(合理的推論の積み重ね)の前提ということです。

一方、江本勝さんの説は、人間の行動(むしろ、使う「言葉」)が道徳的であるかどうかを、自然現象の観察により判定可能だ、というものです。“モノの世界”が、道徳的/非道徳的(良い言葉/悪い言葉)の判定装置を提供するのです。具体的には、「ありがとう」と「ばかやろう」を見せた水を凍らせてみるあの方法ですね。ここでの「根拠」は、道徳的か非道徳的かの“判断基準/判定装置”です。

少しだけ冷静になってみれば分かるはず

ドーキンス理論も江本理論も、非常に杜撰<ずさん>に要約すれば:

  • 道徳の“根拠”を自然科学に求めることができる。

となるかもしれません。曖昧・多義的な言葉を使った杜撰な要約、これが問題です。これをベースにして(つまり、曖昧さと杜撰さをそのままにして)議論を先に進めると、ワケワカンナイ結論へと容易に到達します。不注意からそうなることもあるでしょうが、曖昧さや杜撰さ(正確な情報の欠如)を利用して、意味と論点をすり替えるトリックを意図的に使う人もいます。

冷静になって、その言葉の“もともとの意味”は何であったか、その文の“正確な表現”は何であったか、と考えてみてください。曖昧/杜撰な言葉の断片達の流れに身を任せれば、あなたはトリックの使い手の思うがままに誘導されてしまうでしょう。-- ご注意を。

*1:後で、杜撰な要約を批判しているので、ドーキンス理論の通俗的要約で事を済ませているのは自己矛盾のきらいがあります。が、ドーキンス理論理解の不正確さが、僕の論旨を破綻させるとも思えないので、よしとします(少し苦笑)。