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参照用 記事

ニセ科学は「バグのあるモジュール」なんかじゃない

弾さんが、科学と道徳/しつけに関する続編を書かれています。そのなかで、「科学はあなたを救ってくれない」を引用していただき、かつ、「おっしゃる通りです。ご高説、ごもっとも。」と賛同していただいているわけですが、その引用箇所が:

通常科学の主たる仕事は、この現象世界に対して整合的で経済的(できるだけ単純)な説明を与え、できるだけ包括的かつ正確な予測手段を提供することです。

グニャ
自分で書いておきながら、あまりにも「ご高説」で気恥ずかしくなるような箇所、グニャグニャ
論点をはぐらかされた/すり替えられた印象が強いので、補足をしておきます。

弾さんのエントリーは、僕の「ご高説」引用から、実験と信用の話へと続きます。この部分は、現象/現実の記述として読めば特に異論もないです。細かく言えば、実験の意義とか科学における信用の解釈が奇妙なんですが、まー、いいとします。が、次の段落:

そして、なぜエセ科学が蔓延するかといえば、我々の信用システムが、「実証を信じる」ではなく「人を信じる」からだからに他なりません。裏を返せば、エセ科学は我々がいかに科学を信用するようになったかという証しでもあります。

エセ(ニセ)科学が、「人を信じる」メカニズムに乗っかって蔓延する、という主張でしょうか? どうにも理解できない。例えば(毎度「水伝」ばっかしですが)、人々が江本勝さんという人、その周辺の人、既存ビリーバーを信用するから、水伝理論が信用されるのでしょうか。仮にそうだとしても、では、水伝理論に先立つ、江本勝さんなる人物への信用はどこで担保されているのでしょうか。

僕の観測によれば、江本さんの著作群の際だった特徴は美しい写真です。そして、「写真=科学的証拠」と受け止めている人も多そうです。また、江本さんはしばしば「実験」「研究」などの言葉を使い、量子力学やらアインシュタインも引き合いに出します。江本さんは、事前に存在する「人(江本さん)への信用」ではなくて、人々の科学への(誤解や過大評価も含めた)信用を利用して(当然に不当な利用です)、自分と自説への信用を獲得していったのです。

と、信用の話はこのくらいで済ませて; さて、その後が僕の論点に関わる部分です。プログラミングに例えて:

要は「このモジュールにはバグがある」というのではなく、「もっと安全で高性能なモジュールがあるよ」という提案の方が人々に受け入れられるのではないかということです。

ここ、ここ。
ここが、僕が異論を唱えた部分(に対応する言い換え)なんですが …

だーから、そうじゃないんだってば。

このプログラミングの比喩をそのまま使い続けて話すなら、しょうもないニセ科学(「しょうもない」の定義は「通常科学と真性ニセ科学の両立不可能性 その2 」を参照)は、「バグがあるモジュール」なんてもんじゃないのです! そもそもコンパイラ(あるいはパーザー)も通らないデタラメ。それを「バグがあるモジュール」なんて言うから、「バグを修正すればいい」「他の、より完成度が高いモジュールで置き換えればいい」なんてトンチンカンな議論が出てきてしまうわけ。(詳しくは、「通常科学と真性ニセ科学の両立不可能性について」参照。)

モジュールとして認められ(存在を許され)、それに「バグがある」とか、「アルゴリズムがいまいちだ」とか、「仕様を変えてみよう」とか、そんな議論や行為(に相当するもの)は、通常科学の範囲内にあるものです。しょうもないニセ科学とは、モジュールとして存在できないものであり、存在すべきでもなく、バグ/アルゴリズム/仕様なんて概念は通用しないし、通常のプログラミング行為に取り込める可能性が全くないデタラメな何ものか(に相当するもの)、です。

念のため注意しますが、デタラメとは、比喩としてはプログラミング、現実としては科学の観点からはデタラメってことです。シェークスピアや般若心経のテキストをコンパイラにかけてもエラーになるよ、っていう比喩で理解してください。



僕のエントリーも、弾さんのエントリーも、割と無難でたいていの人が「そりゃそうだろう」と思う言明を含んでいます。例えば、僕の「ご高説」部分、あるいは弾さんの:

例えば、光速不変を信じるために、自らマイケルソン・モーリの実験をしてみた人はどれくらいいるのでしょうか?[注:反語的に「ほとんどいない」]



もし科学者たちが、「水からの伝言」ではなく自らの伝言を人々に伝えたいと欲するのであれば、やはり伝言のやりかたにはもう一工夫必要なのではないしょうか。

ここらへんは「そりゃそうだろう」なんだから、議論の対象にならないのです。一般論として正しそうな言明にくるまれた特定部分、すなわち:

水からの伝言を信じるな」というのは、だから説明責任の半分しか果たしていない。そこで「誰からの伝言なら信じてもよさそうだ」ということまで伝えてはじめて一般人は「納得」するのだ。



「もっと安全で高性能なモジュールがあるよ」という提案の方が人々に受け入れられるのではないかということです。

ここが僕が選び出した論点です。

「通常正統科学の啓蒙と普及のために、コミュニケーション戦略を再考せよ」という論旨の部分は、特に反対はしません。そしてそれは、ニセ科学への対抗策として一定の効果も持つでしょう。しかし、ことの本質はそこではない、というのが(おそくらは弾さんと食い違っている)僕の主張です。科学者の(プロモーション活動も含めた)通常業務を強化する、というような手段では、しょーもないニセ科学への対抗策として弱すぎるし、そのテの正攻法は別な(例えば、科学教育や科学ジャーナリズムの)文脈で語るべきことでしょう。

繰り返しますが、多くのニセ科学信奉者が求めているのは「もっと安全で高性能なモジュール」(説明と予測の手段)などではありません。心に思うだけでプログラムを生成してくれるコンパイラ、とか、まー、なんかそのテの、信じられないぐらい便利でとんでもなく素晴らしくバカげたナニカ(に相当するもの)が欲しいのです。よって、「科学者諸君、もっと啓蒙と普及に努力しましょう」は(それ自体が間違った主張とは言わないが)ピントはずれ。



ここからは余談・雑談。

結局のところ、私の言いたい事は、タイトルの通りということ。

で、そのタイトルとは、「どうせ信用するならエセでない科学を」 -- これ、あまりに当たり前過ぎませんか。「道徳やしつけの根拠は自然科学にある」のほうが、センセーショナルでエキセントリックでかっこよかった。

邪推するに、弾さん、菊池さんの文言に逆張りして、このかっこいいツカミを思いついたのじゃないでしょうか。でも、内容的にはそれほどに過激でないストーリーにまとめてあります(一般論としてなら同意できる部分多し)。が、反・ニセ科学の戦略の部分は甘すぎます(全体の論理も歪んでいる)。

まー、全方位的な話題を扱う弾さんなら、そういうこともあるだろうし、エンタテインメント性を考慮する弾さんの芸風に目くじら立てるのも実に野暮な話ですが、「しょうもないニセ科学」、就中「水伝」は、僕にとっての数少ないシリアス・ネタ。肩に力が入った不粋、ご寛恕のほどを。