「あーあ、こりゃダメだわ、郡司ペギオ-幸夫さん」のコメント欄:
bonotakeさん:
恐らく、郡司さんは既成概念に囚われない斬新な着想・洞察をする事に長けていて、なので随想家・思想家としては光るものをお持ちなんだと思います。m-hiyama:
独特の直観と方法による思想家なんでしょうね。デタラメなことを平気で書いてますが、ある種の天才なのかな、という感じも抱きました。ただ、悪影響/弊害も大きいので、大部分の凡人はマに受けない方がいいと警告はしたいです。伝達のための表現や記述、そして論理に関して、郡司さんは通常のルールをまったく守ってないですからね。それゆえ斬新に見えて、あのスタイルをかっこいいと思う青少年は多そうだなぁー。「よい子は真似しないように」。
この「よい子は真似しないように」を少し敷衍<ふえん>しておきます。
『現代思想』1999-4内の圏論に関するメチャクチャ*1な記述を読んだ直後は、僕、少しムッとしていたのですが、論文全体(合計20ページ)や、一部では有名(?)らしい「ペギオ亀」とかを読んで、考えが変わりました。
郡司さんは、中身がカラッポなペダンチストではないようです。彼は、語るべきことを持っています。それを郡司哲学と呼ぶことにしましょう。僕は、郡司哲学はサッパリちっとも分からないし、分かりたいという欲求も起きません。が、それ(郡司哲学)はおそらく、暗喩や示唆でしか語り得ないような類のものだと想像します。
郡司さんが、変な実験をして禅問答みたいな解釈を付けたり、圏論をデタラメにツギハギして飛躍した結論を出したりしているのは、郡司哲学の暗喩や示唆として、なのでしょう。実験や圏論を引き合いに出すのは“語り”の方便に過ぎないので、それ自体の妥当性や正確さは郡司さんにとってさして問題にならないと思われます。それは、僕らが子供に何かを伝えるとき、例え話やおとぎ話を伝達の手段に使うようなもの。おとぎ話のリアルさや整合性にケチを付けるのは野暮で無意味なことです*2。
それでも僕は、「あーあ、こりゃダメだわ」を撤回する気も訂正する気もありません。「真似するよい子」に対して、あの程度の中和剤(あるいは解毒剤)は必要だと思うからです。
郡司さんの言説は、ある人々には魅惑的でかっこいいでしょうが、デタラメが含まれます。間違っています。前述のごとく、郡司さんご自身にとって間違いはさしたる問題ではないとしても、なぜ間違えるのかを詮索してみると; 語りの道具(分析や推論の道具ではない!)として引き合いに出す理論、例えば圏論は、郡司さんの直観と洞察力により短期間に習得したものでしょう。思弁的に理解(あるいは誤解)はしていても、露骨な計算を手でするようなトレーニングはしてないと思います。
郡司さんは、皮肉でもなんでもなく大変に優秀な方だろうと推察できます。その郡司さんでも、思弁的に理解した内容からは、デタラメなツギハギしか生み出せないのです。トレーニングしてないから間違っちゃうんです(トレーニングしても間違うけどね)。「真似するよい子」「真似したいよい子」は、そこを教訓にしたほうがいいと思います。たいていのことは、直観や思弁ではどうにもならないのです。思弁(スペキュレーション)でなにかを会得できるなんて期待しないほうがいいよ*3。
例えばですね、☓☓プログラミング言語のソースコードを1行も書いたことのない人が、「☓☓プログラミングの本質を、直観と思弁により会得した」とか言っても相手にされないでしょ。まー、そういうことが出来る天才がいるかもしれませんが、そんな例外を話題にする必要なんてないですよね。ほとんどの人にとって、思弁にかける時間をトレーニングに回したほうが効率的です。
なんで僕がこういう説教くさい話をするかというと、僕自身、時間がないとかの理由で、トレーニングを省略して短時間集中のスペキュレーション(そんなことは、実際にはできないのですが)にたよった時期があったからなのよね。それは単純に逃避行動でもあったし、トレーニングをちゃんと遂行できない自分をなぐさめる卑屈な行為でもあったのですが、まったくバカげていた! かえって時間を無駄にして、ひどく後悔してます。