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参照用 記事

週刊新潮vs創価学会なんて僕には関係ないけど、言いたいことが少しある

週刊新潮」3月23日号が、聖教新聞が裁判(名誉毀損)で敗訴したことを伝えている。創価学会に喧嘩腰の「週刊新潮」だから、当然に批判的な論調だし、反・創価学会バイアスがかかった記事だと疑ったほうがいいだろう。しかし、聖教新聞からの引用部分は文言が保存されていると信用して、以下に孫引きする。

上記裁判と直接の関係はないが、平成14年11月20日付け聖教新聞に掲載された座談会記事だそうで、題名は「忘恩の極悪坊主・Kの末路」「仏法を破る極悪非道の輩は必ず滅亡」。掲載時、Kは実名。発言者も、聖教新聞週刊新潮ともに実名だが、特に意味ないからイニシャルとする。

  • M:「あの日顕直系の謀略坊主・Kが、今月10日に死んだそうだな。」
  • Y:(省略)
  • Y:「死相、とにかく悲惨だったようだ。でっぷりしていた身体は見る影もなく痩せ細り、ドス黒い顔に、落ち込んだ目など見られた相ではなかった。そういう話だな。」
  • T:「恐ろしい!まさに『堕地獄』の姿そのものですね。」
  • …(省略)…
  • M:「その忘恩、謀略、遊び狂いの末路が、どうだ?仏罰厳然だ。」

ジェノサイドの論理

まずは、常識的・一般的な感想から: 仮にK師が極悪人だったとしても、死んでしまえば水に流すのが日本的心性じゃないのだろうか。まー、この場面で「日本的」とか言ってもしょうがないかもしれないが、「死んでも、なお許さん」だと、家族親族も皆殺し、根絶やしにしてしまえ(ジェノサイド)、となるんじゃなかろうか。

そもそも多くの宗教は、外(他の宗教、敵対者)に対しては攻撃的で、「殺してはいけない」のは身内(同じ信仰を持つ者)だけであり、他者を殲滅<せんめつ>する戦いは聖戦であったりするわけだからね。創価学会日蓮正宗を殲滅すべき敵として戦いを挑んでいるのだろう。敵は「死んでも、なお許さん」、と。

ついでに言っておくけど、「平和のために戦う」ようなヤツは平和主義者じゃなくて戦争主義者って呼ぶんだよ。みんなが戦わない状態を平和っていうんじゃないの? それで満足できなくて、理想的な絶対平和を目指すなら、特定の価値観による「平和」に敵対する者達を殲滅するしかないから -- あー、それでヤッパリ戦っちゃうのね、理想的絶対平和主義者は。

死相のまやかし、無神経な酷薄さ

次、個人的にきわめて引っかかった点: 実は「引っかかった」どころではなくて、深く怒りをためている。上記の座談から読み取れる限りでは、K師の末路、「堕地獄」の姿そのもの、仏罰厳然が意味する事実は、“悲惨な死相”ってことだ。

死相、死に顔は、しばしば宗教的勧誘や脅し、言い訳に使われる言葉だ。こんな話を聞いたことがある; 「病気が治る」というふれ込みの宗教に入信したが、その人の母親は結局病気で死んだ。そのとき勧誘者は、「でも、信仰していたからあんないい顔で死ねた」と。

いい顔で死ねるのが宗教の御利益だとするのはまーいい(よくねーけど、百歩譲って)、しかし、では逆に、いい顔で死ねなかった者はバチが当たった(仏罰厳然で堕地獄ですか)ってことになるの? どうも、上記座談会の様子ではそのようだ。

闘病の末での死では、そうそう「いい顔で死ねる」ものではない。あるいは、頭部をひどく損傷する事故で死んだらどうなのだ?

僕の父の話をしよう。父のことがあるから、たかが死相を根拠に死者に鞭打つこの残酷さが、ひどく気にかかる(実は怒りを感じる)のだ。父の死については、一度だけ活字にしたことがある。2004年に雑誌連載していたエッセイのなかで:

小学校に入るか入らないころ、わたしは山で迷ってしまったことがある。夕暮れがせまる時分、父親が探し出してくれた。当然ながらそのとき、わたしはシクシクと泣いていた。それを見た父親は、「なんだおまえは、こんなことでメソメソして。お兄ちゃんはなぁ……」と叱りつけた。兄もかつて、わたしと同じように山で迷ったらしい。同じ状況に遭遇したときの兄の様子と比較して、「意気地のない子だ」と父は思ったのだろう。「お兄ちゃんはなぁ」に続けていった言葉は「草食っていたぞ」だった。

父は、草でも虫でも食って生き延びるタフネスを次男であるわたしにも期待したのだろう。余興で俵2俵(120kg)を抱え上げてみせるような父に比べて、わたしはまことに虚弱な子だった。が、比較する相手が悪かったとも言える。そんな父も老いと病には勝てず、最後は俵1俵の2/3 -- 40kgを切る体重にまで痩せ細ってこの世を去った。去年(2003年)の夏のことである。

父は80歳になる少し前にガンで死んだ(直接の死因はガンではなかったが)。70歳を過ぎても筋肉モリモリで骨格もしっかりしていた父が40kgを切ったとき、どんな姿になったか -- 骸骨の上に汚い紙を貼り付けたようなものだった。

「身体は見る影もなく痩せ細り、ドス黒い顔に、落ち込んだ目など見られた相ではなかった。」とは、まさにうちの父の死に様を記述している。自分でもあまりの変わりように愕然としていた父は、僕の子達(孫)の見舞いを断っていた。「こんな姿を見たら、小さい子は怖がる。骸骨みたいなオジイチャンじゃなくて、元気だった頃の姿をおぼえておいて欲しい」と言っていた。

葬儀のとき、上の子(下はほとんど赤ん坊)に父の死に顔を見せるべきかどうか迷ったが、顔をみて最後のお別れをしよう、と言って花を入れさせた。後で「どうだった? オジイチャンじゃないみたいだったろう」と聞くと、「ううん、オジイチャンだったよ。顔がすごく変わっていたけど、それでもオジイチャンだとボクはわかったよ」と、長男は言ってくれた。

創価学会のM, Y, Tよ(その背後の誰かさんも)、死相がアレだから、やれ堕地獄だ、仏罰だって、どれほどに失礼で無神経で傲慢で残酷で人を傷つける発言をしているかわかっているのかな?(わかってないから平気でしゃべるのだろうが) だーから、おまえらの言うことなんかコレッポッチも信用する気にはならないんだよ(だからって、週刊新潮を信奉もしないけどね)。