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参照用 記事

圏論とはいわず、数理論理学の切り口でいってみようか>郡司ペギオ-幸夫さん

ペギオさんは「もういいや」。あの当時は弊害が気になっていたけど、心配する気力も萎えた感じ。

と言いながら、よくやるわ>自分。

ふとしたキッカケで、最近また蒸し返し気味の「余極限の定義とか性質とか、ペギオ版を修正」 のことなんだけど、どうも「郡司ペギオ-幸夫さんがミスをした(あるいは出版物に誤植があった)ので、檜山がそれを指摘して修正した」みたいに解釈されているフシがあるけど、そういうこっちゃないのよね。確かに誤記があって、それを上記の記事冒頭で指摘はしてるんだけど、本質は:

圏と圏の対象を混同しているので、激しくワケわからん記述となっている。以下、全部書き直す。

どっかでid:nucさんも書いておられたけど、雑誌『数理科学』の記事なんて、気がきいた高校生なら読んで苦笑なり嘲笑なりできる、ってレベル。でも、語彙・用語法つうか、その言葉使い*1が哲学的にも数学的にも猛烈に難しいことが書いてあるように思える(思えるだけだ)から、トンチンカンっぷりが読み取りにくいのです。

上記の僕の記事では、『現代思想』1999-4のp.134後半からの4-3節を問題にしたのですが、この部分はカン拡張*2という少し難しい概念が書いてあります。僕がここを書き換えることを選んだのは、自分の練習問題の意味が多少あったからです。でも大丈夫です。その前で既にシッカリ間違っていますから。噛み砕いてみれば、その間違いの驚くべき稚拙さも明らかになります。以前は、引用のモラルが気になって、それとメンドクサイのでほとんど引用しなかったのですが、今回は引用しないと話にならないので遠慮せずに(面倒を我慢して)引用します。

p.132あたりでは、GraphCatのあいだの自由生成関手と忘却関手が随伴だとか書いているのですが、おそらく関手、自然変換の定義も理解しないままに数式だけ写し取っている気配です -- 気配なので、これ以上は言及しないで、もっと分かりやすい所をつついてみましょう。それは、代数系と数理論理学に対する無知っぷりが露呈されている箇所です。ご賞味ください。


P.131, 132で、ひとつの文字'f'で生成される圏(圏の特殊例であるモノイドです)を定義する話があるんですが、圏の恒等(モノイドの単位元)の導入にあたって、次のような御託<ごたく>が述べられています。

逆に、ここには何もしないという操作がない。「しない」は、この段階の文字列集合Dの外部に定位してしまう。可能世界に外部が存在するなら、我々はいつか、その外部を可能世界に取り込む刹那に立ち会わねばならない。つまり、外部は、いつか、という時間の経過や未来を含意する。無矛盾な形式的体系を構成するためには、可能世界は先見的に見渡されねばならない。だから我々は、可能世界全体を、Dに「何もしない」という操作を付け加えておくことで定義せねばならない。何もしないという操作を先験的に与える為に、「何もしないをする」という帰無記号を定義するわけだ。これを1と記すことにする。かくして与えられた有向グラフの生成する文字列集合=言語は {1, f, ff, fff, ...} によって与えられる。

ここで、最初のほうに出てくるDは、{f, ff, fff, ...} という文字'f'を有限個並べた文字列の集合です。それに連接の単位元1(空列と思えばいいです)を追加するってだけのことです。なんで「可能世界」が出てくるんじゃい? と思うわけですが、次の主張に注目しましょう(強調は檜山)。

無矛盾な形式的体系を構成するためには、可能世界は先見的に見渡されねばならない。だから我々は、可能世界全体を、Dに「何もしない」という操作を付け加えておくことで定義せねばならない

日本語の解釈は微妙な点がありますが、半群(semigroup)であったDに、演算の単位元を付け足す理由が「無矛盾な形式的体系を構成するため」と読めませんか? 僕はそう解釈しちゃうのだけど、僕の解釈が違えば元も子もないです。でも、普通に読めばそうなるよね。

そうだとすると、単位元を付加する前の半群は「無矛盾な形式的体系じゃない」ということを前提してますよね。実際のところ、郡司ペギオ-幸夫さんは「形式的体系」も「無矛盾」も理解しないで闇雲に使っているだけでしょうが、ここでは数理論理学の常識に従って解釈します。二項演算記号と等号を含むような言語*3を準備して、普通に、例えば古典論理ベースで等式的(equational)な形式的体系を作ったとします。さらに、半群の公理系(結合律だけ)を入れて形式的理論(セオリー)を作ったとしましょう。

さて、単位元を含まない*4半群の形式的理論は矛盾するでしょうか? 矛盾するならモデルは持てないはずですよね。でも、まさに郡司ペギオ-幸夫さんが提示している D = {f, ff, fff, ...} はこのセオリーのモデル(のひとつ)です。矛盾しているわけないじゃん。単位元とそれに関わる公理を入れたモノイドの形式的理論も矛盾してませんけどね*5*6

無矛盾な形式的体系を構成するためには」って、いったい何を言いたいわけ? 「可能世界」ってナニソレ?? まったくカンケーねえだろ。数理論理学のお勉強を欠片<かけら>もしてないとしか思えないのですが。それで、ゲーデルがどうたら、とか言うのですか?


僕が引用したテキストがすごく古いので(それしか持ってないのでスミマセン)、その後、圏論も論理も精進したのかも知れませんが、こんなイイカゲンなことを平気で書き散らすって態度や神経ってのは、治りにくいのじゃないのかな。


[追記]
「郡司さんは、通常の意味で『形式的体系』や『無矛盾』という言葉を使っているのではない」という擁護がすぐに思い浮かびます。既に他の人(特にbonotakeさん)が言っていることですが、そこがまさに問題視される点なんです。

僕は、自然言語の曖昧性・多義性に依拠した議論を(大嫌いだけど)完全に否定する気はありません。しかし科学や工学のコミュニケーションだと、曖昧性や多義性が非効率性につながるので、数学の概念・用語・記法を使うわけです。ある一定のトレーニングを受けた人々の間なら、自然言語より数理的言語のほうが手っ取り早いし誤解も少ないことになります。そのために、共通の定義や推論を準備しているのです。

それなのに、共通の定義や推論からはまったくのデタラメとしか解釈できない流儀で数理的言語を使うってのは、やっぱりやっちゃいけないことでしょう。ルール違反がひどすぎます。郡司ペギオ-幸夫さんの観客(読者層)の多くが、最初からルールを知らないのでルール違反を咎めない、ルールを知っている人は意味不明で咎めようがない(あるいはバカバカしいから相手にしない)、郡司さんのお友達は知り合いのよしみでキツイことは言わない。

境界領域に位置するところで発言しているので、どっち側からもちゃんとした検証や批判の機会がないってことじゃないのかしらね。
[/追記]

*1:郡司さんがスゴイのは、その膨大な語彙です。郡司さんがヒドイのは、その語彙を正しく使おうという意識がほとんどないことです。少なくとも僕が知っている言葉に関しては、デタラメに組み合わせているだけです。

*2:リンク先はジョークです。

*3:形式言語理論における言語=文字列の集合と、形式的体系を準備するときの言語は多少違うので注意してください。

*4:正確に言えば、単位元を表す定数記号や単位元の公理を含まないことです。

*5:一般的には、公理を増やせば増やすほど矛盾するリスクが高くなります。郡司さんは、まったく逆のことを示唆していますが、それも間違いです。

*6:[追記]引用の写し違いがないかチェックしていたら、引用部分の少し前で、「公理系」という言葉さえも誤解していることを発見。郡司さんが言っている「公理系」は実際は定理集合、つまりセオリーのことです。[/追記]