このブログの更新は Twitterアカウント @m_hiyama で通知されます。
Follow @m_hiyama

メールでのご連絡は hiyama{at}chimaira{dot}org まで。

はじめてのメールはスパムと判定されることがあります。最初は、信頼されているドメインから差し障りのない文面を送っていただけると、スパムと判定されにくいと思います。

参照用 記事

イデアルと論理 (3):どこが仕様やねん?! これは仕様です

『ダイハード 3』(2じゃなくて3です、by id:tenyさん)でマクレーン刑事とゼウス(ゼウスも一緒ね、by tenyさん)に課せられたクイズ問題を最初のネタにして、イデアルの解説をする、っていう予定だったんですが、前回(その(2))は、割り込みで“よしなしごと”を書いてしまいました。

思えば、このシリーズは突発的な“気晴らし”と“気まぐれ”ではじめたのだった。入門としての教育的配慮をしよう、とか思うとプレッシャーがかかり、どうも与太話がしにくくなる。ダイハードのクイズは例題として使い続けるだろうが、今日も「よしなしごとスタイル」でいきます。スンマセンけど。

「よしなしごとスタイル」は、教育的配慮ないかんね、ゆっとくけど。ちっともself-containedでない。だけど、どうせフォローする必要もないような話だから、雰囲気だけでも伝われば、それでいいのですよ、ウン。

内容:

  1. イデアルを考えた人々
  2. 唐突なイデアル
  3. 論理なイデアル

イデアルを考えた人々

イデアルと論理 (2) の「よしなしごと」で、「歴史的なことにまったく無知だけど」と断りを入れて、イデアル整数論が発祥だろう、と書いた。ホントかな? という不安があったので、いちおうの確認をば。

実は、本の衝動まとめ買いをしたとき、『代数的整数論』ってのも買った。これは高い! でかい本だから高くてもしょうがないかもしれないが、でかいということは読まないってことでもあるし、ますますもったいない。それにしてもこの本、活字を小さくして行間詰めれば値段もサイズももう少しコンパクトになったのではないか?(もっとも、僕みたいにギュウギュウ詰めが好きな人は少数派か)。

さてこの本、ところどころに歴史的な話題が顔を出す。それによると、イデアル(の元)を考えたのはクンマー(Kummer)とのこと。次のような事情らしい(以下、全部うけうりの記述)。

普通の整数の範囲なら、21=3×7と素因数分解が確定するが、ηを「-5の平方根(のひとつ)」として、n + mη (n, mは整数)の形の数まで広げて考えると、21 = (1 + 2η)(1 - 2η) とも分解できる。3, 7, 1 + 2η, 1 - 2η のどれも、素数みたいな(それ以上分解できない)存在であって、結局、「ηを入れて拡張された整数みたいな数」のなかでは素因数分解の一意性が成立しない

クンマーは、もっと広い“理想数”の領域があって、3, 7, 1 + 2η, 1 - 2ηが、その理想数領域では次のように“理想素数”に因数分解されると考えたそうだ。

  • 3 = p×q
  • 7 = r×s
  • 1 + 2η = p×r
  • 1 - 2η = q×s

だとすると、21 = p×q×r×s と一意分解される。21が2通りに分解されるように見えたのは、(p×q)×(r×s) と (p×r)×(q×s) の違いだけのこと。

クンマーが「理想数」と名付けた事情は、5だの 3 - 2ηだのが“地上の数”なのに対して、なんか超越的な“天上の数”とイメージしていたからだろう(ここは、「たぶん」)。地上ではそれ以上分解できない7とか1 + 2ηも、天上界の元素まで考えれば分解できるってことですね。

ところが、この天上の数はそのまま(クンマー流)では扱いが難しい。現代風の定式化をしたのはデデキント(Dedekind)だそうだ。これは、「あー、やっぱり」という気がする。デデキキントさんは、超越的な天上の存在を地上に引きずりおろすのが得意だったのではないか、と思えるからだ。

実数は、有理数からみると超越的だが、デデキントは実数を有理数の切断で定義した。これも、超越的なモノ(実数)を基底的なモノ(有理数)で表現している。そのとき、“基底的なモノの集合”や“集合の集合”を使っている。20世紀風の定式化のハシリだったのかもしれない。

そういうわけで、やっぱりイデアルの発祥は整数論で、アイディアはクンマー、今風の定式化はデデキントってことでいいみたいです。

●唐突なイデアル

と、こんな話をしながら、イデアルの定義を一切出してないのだけど、それには理由がある。僕は、はじめてイデアルの定義を知ったとき、まったく理解できなかった。まー、フォーマルにはわかる、というか「あー、そうですか、ハイ」とは言えるが、その根拠や必然性が想像できなかった。そういうときは、我慢して先に進むのが正しいのだろうけど、それにしても余りに唐突なのはいけないですよ、教育的に。

んじゃ、唐突でない導入の仕方があるのか?と問われると全然自信がない。だから、唐突に出します(おい、コラッ)。普通の整数の全体をZとすると、I⊆Zイデアルであるとは、Iのなかで足し算と符号反転が自由にできて、整数による掛け算でも閉じていることです。

と、僕自身はこのような(1つ上の段落のような)感じで、唐突にイデアルを知ったわけだが、Zのなかでは、イデアルとはいってもそれは倍数集合に過ぎない。倍数集合をわざわざ「イデアルだ」という意義はあんまりなくて、Z内の部分加法群として特徴付けることができてしまう。

Z×Zなら、(n, n)の形の全体が部分加法群(実は部分環)になるが、イデアルではない。2変数多項式くらいだと、イデアルでない部分加法群や部分環をいろいろ作れる。単なる部分加法群や部分環だと、商(剰余)R/Iがうまく作れる保証がない、という点がイデアルの定義を(ある程度は)説得的にするだろう。

環R上の加群(加法群ではなくてmodule)の例はいろいろ作れる。RのイデアルはR加群になる。つまり、Rに埋め込まれた(内蔵された)加群イデアルだといえる。Rを調べるために、“R上のすべての加群の世界”という外に拡がったマクロ・コスモスを考える方法があるけど、一方で、Rに最初から内蔵されたイデアルを調べるのは、Rの外ではなくてR自身というミクロ・コスモスを対象にすることになる。このミクロ・コスモスが最もツマラナイ(自明な)構造のとき、Rは体になる。体がツマラナイのではなくて、体のイデアルを調べるのがツマラナイのですよ、だって、(非自明な)イデアルないんだもん。

●論理なイデアル

シリーズ最初から言っていることだけど、普通の(つまり可換環の)イデアルの話をする気はなくて(つうか、できないし)、論理のイデアル(あるいはフィルター)を話題にしようとしている。ただし、順序構造や束論に特有な議論はしたくない。可換環や関数環と類似の展開にしたいのですよ。

で、そんなことして何がうれしい? 別にナーンニモうれしくなくてもいいのよ、面白ければ。でもね、例えば「セオリーの理論」は仕様技術のベースになると思うわけ。って唐突ですなー。セオリーはtheoryだから、「理論の理論」で意味不明でしょうが、言葉使いにこだわらないほうがいい -- セオリーは命題(主張)の集まり。命題は論理式で表現されるから、論理式の集まりといっても同じ。

論理式の集まりがあれば、それらで規定される対象があると思っていいでしょう。その対象がセオリーのデノテーション(指示物)になるんだけど、ここで、「論理式」を「多項式」に言い換えてみると、多項式の集まり(連立の方程式)で規定される対象って、代数的な図形でしょ。イデアルは、代数的な図形を調べるのによく使われる手段だから、論理式で定義される対象を、論理的なイデアルを使って調べるのは当然のような気もする。

結局、セオリーの理論は、「連立方程式と図形」の論理版(論理幾何)だけど、実は「セオリー=仕様」です。この等式に違和感があるなら、「仕様」を「形式仕様」としてもいいけど。んで、「セオリーの理論=論理幾何=形式仕様論」となるわけ。納得できない? でも、仕様技術のベーシックな部分では、論理なイデアルを使わざるを得ないと思いますよ。

本日の結論は特にないけど、僕はやっぱり、仕様に興味があるし、これは仕様の話なんだってことです。