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それで思い出すこと、「忙」と「ボーッ」は違う

直前のエントリーで、僕の場合「ボーッとする=何か考える」だと書いた。それでは、「ボーッとすること=何か考えること」はいいのか悪いのか? いいこと、価値あることだと僕は思っている。

その点では、僕の三十代前半はまったく悲惨だった。「ボーッ」じゃなくて「忙」。おかげで、僕の頭のなかはオガクズになった。ボーッとできないから何も考えられない。リハビリに5年はかかっちまった。昔ほんの少しカジった論理学や幾何学の教科書をまた読めるようになったは、四十歳も過ぎてから、アーアッ。

僕は振り返ってシミジミ思うんだが、人間の思考力は驚くほどに退化する。あるとき、教育学の先生から、彼の調査の結果を直接聞く機会があった。成人既婚女性の“学力”は、だいたい小学校4年生くらいだそうだ*1。もちろん、“学力”の定義に問題がある。ここでは単に「学校の試験に答える能力」ってこと。それと、成人既婚女性という母集団の選択に特に意図はない、いやっ、某先生には意図があったとしても、僕は聞いた話を書いている。

「論理学や幾何学の教科書を読む能力」や「学校の試験に答える能力」が思考力か?と問われれば、「いや、もちろんそれだけではない」と僕も無難に答えるであろう、そんなことを議論したくないから。でもね、一面的で矮小な“思考力”であったとしても、それを失ったと自覚したときのダメージは相当なもので、あれはキイタね、コタエタね。

だから僕は、ボーッとしていたい。子供の頃、生家(ド田舎!)の縁側で目を細めてひなたぼっこをしていると、飛蚊<ひぶん>現象が起きて、それがなんかキレイだった -- そんな風にボーッとね。

*1:母集団からのサンプル集団のレベルが“高い”ので、ほんとの平均はもっと低いだろう、ともコメントしていた。