このブログの更新は Twitterアカウント @m_hiyama で通知されます。
Follow @m_hiyama

メールでのご連絡は hiyama{at}chimaira{dot}org まで。

はじめてのメールはスパムと判定されることがあります。最初は、信頼されているドメインから差し障りのない文面を送っていただけると、スパムと判定されにくいと思います。

参照用 記事

入れ子の世界が大好きだけど怖い

コンピュータに何かをさせるとき、現実の世界や概念の世界をコンピュータのなかに写像しようとします。そうすると、当のコンピュータ自身もコンピュータの世界のなかに写像されることがあります。

ハードウェアエミュレータなんて典型的で、「ハードウェア → ソフトウェア」という形で現実世界の存在物をコンピュータ世界内に写像しています。一方で、通常はソフトウェアで実現される言語処理系をハードウェアとして作る話もあります*1。これは「ソフトウェア → ハードウェア」という方向で、コンピュータ世界と現実世界を行き来しています。

2010年末から公開されている映画『トロン:レガシー』は、現実世界とコンピュータ内部世界を行ったり来たりする冒険譚です。1982年の映画『トロン』の続編という位置付けですが、僕は初代『トロン』も見ました。それよりもっと昔の『ミクロの決死圏』(1966年)という映画も映画館で見ましたね; これは人間が小さくなって人体の内部世界に入り込む話です。

いずれも、入れ子になった世界というモチーフを扱っています。なぜか僕は、入れ子の世界が好きで惹かれるのです。コンピュータに関連した言葉では「再帰」でしょうが、スノーグローブ(もともとはバエズが使っていた言葉)、メタ循環/メタ巡回、レイフィケーションなんて話題でしょっちゅう言及しています。

「日常」タグを付けた記事でも:

手塚治虫の『火の鳥』でも、入れ子になった世界が出てきます(仏教的な世界観なのでしょうか)。デカルト閉圏による入れ子の世界から僕は手塚治虫を連想したりします。

次の図は、「プログラマのための「ゲーデルの不完全性定理」(3):自己適用からゲーデル化へ」に入れたウロボロスみたいな「記述の再帰現象」の絵です。

落語の「頭山」も、再帰っぽい奇妙な話です。Lispの説明に「頭山」を使っていた本があったような気がします(記憶が定かでない)。

以下の記事では、モナドがモノイドであることに触れてますが、モナド、モノイド、モノイド圏の概念が循環しています。

こういう循環は、魅力的だが不気味だ。怖い。子供の頃から、このての発想は恐怖だった。なのに、… 怖いもの見たさで興味があるってことか?

実際、(少なくとも僕にとっては)再帰や循環には恐怖感が伴います。「頭山」は笑える話でしょうが(落語だからね)、その光景は不気味ですよね。それと、釈然としないというか、だまされているような感覚も、いつまでもいつまでも付きまといます。再帰現象を厳密に定式化しようとした人々は、このワカラナサを払拭しようと努力したのかもしれません。その努力は実ったのでしょうが、感覚的・心情的には、再帰は魅力的だけどやっぱりよく分からない怖いものですね。

*1:最近は流行りませんね。商業的に成功するのが難しいからでしょうか?