記事「コンピュータ科学や組み合わせ論を“微分幾何”とみなす:CADGの夢」(2016年) を書いた頃、「抽象微分幾何〈ADG : Abstract Differential Geometry〉」という言葉を、何人かの人が使っているのを知りました。そのなかでも、アナスタシオス・マリオス〈Anastasios Mallios〉の抽象微分幾何がなんか面白そう、と思いました。
が、マリオスの抽象微分幾何に関する資料は少なくて、その詳細はよく分かりません。アルダ・デミハン〈Arda H. Demirhan〉の短い論文をたよりに、「たぶん、こんなものだろう」と想像してみます。マリオスの抽象微分幾何は、なかなかに魅力的な手法のように思えます。
内容:
マリオス微分幾何
マリオスによる抽象微分幾何をマリオス微分幾何〈Mallios differential geometry〉と呼ぶことにします。マリオス微分幾何は、物理への応用を意識して、1990年代にマリオスにより創始されたものです。「コンピュータ科学や組み合わせ論を“微分幾何”とみなす:CADGの夢」で紹介した“抽象微分幾何”は、ラムダ計算や組み合わせ論など、一見して幾何とは思えない領域にも応用するものですが、マリオス微分幾何は、伝統的微分幾何の直接的な拡張です。
マリオスは、抽象微分幾何の書籍を書いてます(下のURL参照)が、インターネット上で入手できる資料は少ないです。
- マリオスによる書籍の目録: https://www.amazon.co.jp/l/B001JSC1RM
デミハンが、マリオス微分幾何の短い紹介を書いています。
- Title: ABSTRACT DIFFERENTIAL GEOMETRY VIA SHEAF THEORY
- Author: ARDA H. DEMIRHAN
- Pages: 11p
- URL: https://schapos.people.uic.edu/MATH549_Fall2015_files/Survey%20Arda.pdf
デミハン論文の前半は予備知識の準備で、マリオス微分幾何について書かれているのは最後の3ページだけです。僕は、この3ページに書かれていることしか知りません。しかも、そこで述べられている埋め込み定理はよく理解できてません。
マリオス微分幾何を思い出したキッカケは、「多様体上のベクトルバンドルの接続と平行移動」を書いたことです。ベクトルバンドルの接続を、平行移動として定義したのですが、別なやり方として、共変微分ありきから出発する方法があります。共変微分を扱うには、マリオス微分幾何が向いてると思います。
層ベースの代数構造: 微分三つ組
マリオス微分幾何の特徴は、全面的にヘビーに層の理論〈sheaf theory〉を使っていることでしょう。登場するあらゆるモノが層になっています。層を前提にするなら、マリオス微分幾何が扱う対象物はとても簡単な定義を持ちます。
その対象物は、微分三つ組〈differential triad〉といいます。微分三つ組は層ベースの代数構造ですが、層抜きの単なる代数構造として述べれば、「ライプニッツ射を備えた加群」です -- 以下でもう少し説明します。
まず、スカラー体を固定します。ここでは、スカラー体はRとします*1。AはR上のベクトル空間で、単位的・結合的なR-代数だとします。長たらしいので、AはR-可換環、あるいは単に可換環と呼ぶことにします。Kは可換環A上の加群とします。Aが可換なので右加群と左加群を区別する必要はありません。AによるKへの掛け算作用は'・'で表し、左右どちらからでも掛け算できるとします。
可換環AからA-加群KへのR-線形写像 d:A→K がライプニッツ射〈Leibniz morphism〉だとは、次の等式が成立することです。
- d(ab) = da・b + a・db
可換環A、A-加群K、ライプニッツ射 d:A→K を組にした (A, K, d) が微分三つ組です。ライプニッツ射dは微分〈differential | derivative〉とも呼びます。
微分三つ組をひとつの文字で表すときは、α, β などのギリシャ文字小文字を使うことにします。そのときは、β = (Aβ, Kβ, dβ)、または β = (B, L, d') のように書きます。マリオスのもとの記法では、δ = (A, ∂, Ω) のように書くようです(三つ組の真ん中がライプニッツ射)。
微分三つ組の代数的構造はこれだけです。が、この代数的構造を、位相空間X上に広げて考えます。空間X上の微分三つ組は、X上の可換環の層 A、A-加群の層 K、ライプニッツ法則を満たすベクトル空間の層の準同型射 d からなります。その具体例としては、Mをなめらかな多様体として:
- A = C∞M = (M上のなめらかな実数値関数の層)
- K = Ω1M = (M上の1-微分形式の層)
- d = dM = (M上の外微分作用素の層準同型射)
なめらかな多様体Mは、Mの台位相空間上の微分三つ組 (C∞M, Ω1M, dM) を定めます。
前層と層の記法
この節と関連する内容が次の記事にあります。必要なら参照してください。
Xを位相空間として、Xの開集合全体の順序集合を圏とみなしたものを Open(X) と書きます。C を圏とすると、関手圏 [Open(X)op, C] を考えることができます。これが、X上のC値の前層の圏〈category of presheaves〉です。その対象は前層(実体は関手)、射は前層の準同型射(実体は自然変換)です。次の書き方を使います。
- C-PSh[X] := [Open(X)op, C]
前層の圏は、関手圏そのものであり、呼び名を変えているだけです。(呼び名は歴史的経緯からです。)
Cを具体的な圏に置き換えると:
- Set-PSh[X] : 集合の層の圏
- VectR-PSh[X] : R-ベクトル空間の層の圏
- CRng-PSh[X] : 可換環の層の圏
- AlgR-PSh[X] : R-代数〈多元環〉の層の圏
Open(X) の族 {Ui | i∈I} に関する貼り合わせ条件を満たす前層が層〈sheaf〉です。層の圏〈category of sheaves〉は、前層の圏の充満部分圏になります。
層の圏を書き表すときは、PShの代わりにShとします。Set-Sh[X], VectR-Sh[X], CRng-Sh[X], AlgR-Sh[X] などです。
F∈|C-Sh[X]| のとき、F(∅) = (Cの終対象) を要求します。∅(空集合)は、Open(X)op の終対象なので、層は終対象を保存することになります。したがって、終対象を持たない圏への層は作れません。1を一点だけからなる位相空間とすると、C-Sh[1] C (圏同型)です。
Set-PSh[X], Set-Sh[X] を、単に PSh[X], Sh[X] と書きます。PSh[X], Sh[X] は、集合圏Setと似ていて、位相空間X上で集合論が使える感じになります。例えば、VectR-Sh[X] の議論なら、X上の集合論に基づき、X上の実数係数線形代数をしていることになります。
加群の層
位相空間X上の線形代数では、体R上のベクトル空間だけでなく、可換環上の加群も扱います。微分三つ組の構成素であるKは、加群の層です。加群の層は、集合の層やR-ベクトル空間の層とは違って、係数可換環の層を最初に選ぶ必要があります。
CRngR は、可換・単位的な乗法を持つR-代数〈R-多元環〉の圏とします。スカラー体はRに固定しているので、CRngR を CRng とも書き、その対象は可換環、または単に環とも呼びます。CRng-Sh[X] は、位相空間X上の可換環の層の圏でした。
A∈|CRng-Sh[X]| を選びます。選んだAに対して、A-加群の層の圏 A-Mod-Sh[X] を定義できます。A-Mod-Sh[X] の対象は、アーベル群の層Kと、乗法作用α(実体は自然変換)の組です。
- K∈|Ab-Sh[X]|、Abはアーベル群の圏、K:Open(X)op→Ab で貼り合わせ条件を満たす。
- α:A×K→K は、Sh[X] の射であり、U∈|Open(X)op| ごとに、αU:A(U)×K(U)→K(U) が、加群の構造を持つ。
αは左からの掛け算ですが、Aが可換環の層なので、右からの掛け算も許すことにします。
R-ベクトル空間の層は、場所(Xの開集合)によらずスカラー体はRですが、A-加群の層の場合は、開集合Uごとに、係数可換環A(U)も異なるかも知れません。場所により加群構造が違った様相を呈します。
マリオス微分幾何は、ライプニッツ射を備えた加群の層の理論だといえます。埋め込み定理によると、通常の微分幾何(なめらかな多様体の理論)は、マリオス微分幾何に包摂されます。ということは、通常の微分幾何を、マリオス流に扱うことは意味があるでしょう。
余インデックス付き圏としての微分三つ組達
マリオスは、微分三つ組と抽象微分多様体を同義語として使っています*2。確かに、幾何的・代数的オブジェクトとしては、微分三つ組と抽象微分多様体は同じものです。が、圏としては、微分三つ組の圏と抽象微分多様体の圏は別物とみなしたほうがいいでしょう。
位相空間X上の微分三つ組の圏を DT[X] と書き、抽象微分多様体の圏をADMと書きます。DT[X] とADMの関係を述べたいのですが、まず DT[X] を調べます。
DT[X] は、ブラケット内に位相空間Xが入ってます。Xを引数と考えると、DT は、Top→CAT という対応になります。この対応は(共変の)関手になります。ここで、Topは位相空間の圏、CATは、“必ずしも小さくはない圏”の圏です。
DTが引数を持つことを強調したいときは、DT[-] と書くことにします。ハイフンの所に位相空間か連続写像が入ります。DT[X] は既に定義済みなので、f:X→Y in Top に対して、DT[f]:DT[X]→DT[Y] in CAT を定義すればOKです。
記法を簡略にするために、DT[f] をf*と書きます。f*:DT[X]→DT[Y] は関手なので、α∈|DT[X]| に対して、f*(α)∈|DT[Y]| が決まります。f*(α) を、fによるαの前送り〈push-out | push-forward〉、または順像〈direct image〉と呼びます。
f*の定義は簡単です。f:X→Y は連続なので、逆方向の関手 Open*(f):Open(Y)→Open(X) が誘導されます。ここで、Open*(f) は、反変のベキ集合関手 Pow*(f):Pow(Y)→Pow(X) を制限したものです。部分集合の逆像を対応させる関手(順序準同型射)です。α = (Aα, Kα, dα) に対する f*(α) = (Aβ, Kβ, dβ) は:
- Aβ := Open*(f)*Aα
- Kβ := Open*(f)*Kα
- dβ := Open*(f)*dα
ここで、アスタリスク'*'は、“関手の図式順結合”と“関手と自然変換の図式順ヒゲ結合”を表す(オーバーロードされた)演算子記号です。(「関手と自然変換の計算に出てくる演算子記号とか // 今後使う予定の演算子記号」参照。)
V∈|Open(Y)| に対して、Open*(f)(V) を f-1(V) とも書くので、この書き方を使えば:
- Aβ(V) := Aα(f-1(V))
- Aβ(V⊆V') := Aα(f-1(V)⊆f-1(V'))
- Kβ(V) := Kα(f-1(V))
- Kβ(V⊆V') := Kα(f-1(V)⊆f-1(V'))
- (dβ)V := (dα)f-1(V)
f f* という対応が関手性を持つことを示せば、DT[-] が Top→CAT という関手だと分かります。この確認は省略します。
一般に、Cを圏として、Cop→CAT という関手をインデックス付き圏〈indexed category〉、C→CAT という関手を余インデックス付き圏〈coindexed category〉と呼びます。共変関手に「余」が付いているのは、偶発的な歴史的事情です。
抽象微分多様体の圏ADMの構成
インデックス付き圏/余インデックス付き圏があれば、グロタンディーク平坦化〈グロタンディーク構成〉をしてみるのが定石です。グロタンディーク構成に関しては、次の記事に書いてあります。
Iop→Cat がインデックス付き圏のとき、f:i→j in I に対して (i, A)→(j, B) (i, j∈|I|, A∈|F(i)|, B∈|F(j)|)という射をどう定義するか? 2種類の向きがあります。余インデックス付き圏でも向きが2種類あります。合計で4種類の平坦化があります。
構成の材料 | 構成法 | (i, A)→(j, B) |
---|---|---|
インデックス付き圏 | 平坦化 | A→f*(B) |
インデックス付き圏 | 反平坦化 | f*(B)→A |
余インデックス付き圏 | 余平坦化 | f*(A)→B |
余インデックス付き圏 | 反余平坦化 | B→f*(A) |
余インデックス付き圏 DT:Top→CAT に対して反余平坦化を施すことによってグロタンディーク構成をします。出来上がった反余平坦化圏が、抽象微分多様体の圏ADMです。
- ADM := OpCoflatten(DT)
グロタンディーク構成の定義から、ADMの対象は、位相空間Xと、X上の微分三つ組αのペア (X, α) です。微分三つ組を展開して並べれば (X, A, K, d) となります。つまり:
- ADMの対象である抽象微分多様体とは、四つ組 (X, A, K, d) である。
ここで一言注意: よくやる記号の乱用で、X = (X, A, K, d) と書きたくなりますが(マリオスはそう書いているようですが)、これはやめたほうがいいと思います。同じ位相空間X上に、色々な微分三つ組が載ることがあるので、抽象微分多様体と台位相空間を同じ記号で表すのは危険すぎます。
抽象微分多様体の構造全体をαで表すとき、α = (Xα, Aα, Kα, dα) と表すのがいいと思います。
- Xα は、抽象微分多様体αの台位相空間
- Aα は、抽象微分多様体αの可換環の層
- Kα は、抽象微分多様体αの加群の層
- dα は、抽象微分多様体の微分〈ライプニッツ射〉
埋め込み定理
Mがなめらかな多様体のとき、対応する抽象微分多様体 (XM, AM, KM, dM) を作れます。
- XM = (Mの台位相空間)
- AM = C∞M = (M上のなめらかな実数値関数の層)
- KM = Ω1M = (M上の微分1-形式の層)
- dM = (M上の外微分作用素; 層のあいだの準同型射と考える)
なめらかな写像 f:M→N に対して、抽象微分多様体のあいだの準同型射を対応させることもできるので、C∞Man をなめらかな多様体の圏として、関手 J:C∞Man→ADM を構成できます。
しかし、Jがどのような関手かはハッキリしません。Jが充満忠実関手であることを主張するのが埋め込み定理です。埋め込み定理により、圏C∞Manは、圏ADMの充満部分圏とみなせます。これは、圏ADMを、圏C∞Manの拡張圏として扱っていいことを保証します。
デミハンの論文に埋め込み定理は書いてあるのですが、僕は理解できてません -- 課題です。それと、ADMのなかには、なめらかな多様体以外にどんな“空間”があるのかもハッキリしません。特異点を持つ多様体モドキとかが入っているようですが。
ADMのなかで、部分圏C∞Manを特徴付けることも興味ある問題だと思います。ADMとC∞Manの中間にある圏 C∞Man ⊆ C ⊆ AMD で、タチの良いCを見つけるのも役に立ちそうです。
マリオス微分幾何は、あまりプロモーションされず、露出が少ない理論ですが、微分多様体が持つべき最小の性質を、計算機構としてうまく抽出していると思います。このアイデアはもっと使われていいんじゃないの。