(2005-04-30の続き)
『山谷崖っぷち日記』は僕の好きな本。コメントするより、何カ所か引用したほうが感じが伝わるでしょう。
「いいこと」と羞恥心:
自分たちがいいこと(救済活動)をするための対象として、山谷住人が彼らキリスト教ボランティアたちに依存しているよりもはるかに深い意味で彼らは山谷住人に依存しているのだが、この有名なキリスト教おばさんたちは、このことについて自覚がなさすぎるように思われる。
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その活動のたたずまいに、いいことをしていることについての羞恥心が感じられないのは、私には致命的だと思われる。
善悪の絶対性/相対性:
世の中にプラス100とマイナス100との間の選択肢などが存在しているわけがない。
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性質の異なる、同程度の悪のうちの、どちらを選ぶかというような選択である。絶対の善(プラス100)と絶対の悪(マイナス100)とが対立しているといったふうの信念を奉じていられる人の単純さには、うんざりしないではいられない。
不幸と価値観:
ゴミ箱を漁るような生活が、人々からの視線の問題さえクリアできればどんなに気楽なものかが想像されるから、これがそれほどにも悲惨の極みとしては私には感じられない。
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何を(究極の)不幸と感じるかは、その人の価値観によって異なる。ある種の不幸のみは万人にとっての絶対的な不幸だという決めつけは、やや単純であり、稚<おさな>い(ただしある種の病苦に関してのみは、このような私の判断も留保せざるを得ぬかもしれないという気持ちはある)。
知識と教養:
無知と卑屈と傲慢の三位一体を体現した人々とは、腐るほど出会ってきた。知識それ自体にはさほどの意味はないのだろうが、知識を手に入れる過程で身につく教養なるものは、なるほど重要なものなんだなということが、これら三位一体を体現した人々と接触するたびに痛感させられるのだった。
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無知であることが恥と陋劣<ろうれつ>さにつながらないためには、どれほど例外的、超人的な意志力を必要とするかに想いを致せば、私は、無知は恥と陋劣さの母胎だ、と言い切ってしまいたい気持ちにかられる。
(どん底からの報告、オシマイ)