アブラムスキーの抽象スカラーを一般化して、ダガー圏と組み合わせると、内積ベクトル空間の性質をある程度は再現できます。関係圏の構造(の一部)をこの枠組で説明できます。
内容:
その後の抽象スカラー
「テンソル半加法圏と半環のあいだの対応」において、アブラムスキーの抽象スカラー(abstract scalar)という概念を紹介しました。
(C, ×, 1) がモノイド圏のとき、モノイド単位1の自己射(endomorphism)をスカラーと呼ぶのでした。EndC(1) = C(1, 1) は、ケリー/ラプラザ(Kelly and Laplaza)の補題から可換モノイドとなり、これをCのスカラー系と呼びます。スカラー(射)はC内に存在しますが、スカラー系は、Cを外から見た時に把握される概念で、C内の対象や射としては存在しない点に注意してください。Cに指数があるならば、11 がスカラー系を表す対象(内部スカラー系)となりますけどね。
アブラムスキーの抽象スカラーは、スカラー概念をうまく定式化してますが、次の問題があります。
2番目のつまらないスカラー系の例として、Cが双積を持つ圏(半加法圏)とします。双積「+」はモノイド積なので、零対象0と共に (C, +, 0) はモノイド圏です。この圏のスカラーは、0:0→0 だけで、スカラー系は単元集合 {0} になってしまいます。スカラーが0しかないのは、さすがに「つまらない」ですよね。
上記の問題を解決するために、モノイド構造に頼らない定義もあります。圏Cの特定の対象Iを選んで、これをスカラー対象とします。ただし、次の条件を要求します。
- s, t:I→I のとき、s;t = t;s
自己射の可換性ですね。Iがモノイド単位のときは、ケリー/ラプラザの補題が可換性を保証したのですが、今回はスカラー対象の公理として前提します。スカラー対象Iの自己射をスカラー射、あるいは単にスカラーと呼びます。
スカラーとベクトルの計算
(C, I) はスカラー対象を持つ圏とします。スカラーどうしは掛け算(射の結合)ができて、掛け算は可換となります。次にベクトルを定義しましょう。
A∈|C| に対して、v:I→A をAのベクトルと呼びます。sがスカラーとすると、s:I→I なので、ベクトル v:I→A と結合できます。s・v := s;v としてスカラー乗法を定義しましょう。左乗法の形にしましたが、v・s := s;v と右乗法でもかまいません。
双対的に、f:A→I をAのコベクトルと呼びます。コベクトルに対してもスカラー乗法を f・s := f;s として定義できます。ベクトル v:I→A とコベクトル f:A→I に対して、それらのスカラー積(スカラー乗法とは別です)<f|v> を <f|v> := v;f として定義できます。定義から、スカラー積は I→I という射なので確かにスカラーです。
ベクトルの足し算はというと、圏が可換モノイドで豊饒化されていれば足し算ができます。アーベル群で豊饒化されていれば引き算もできます。直接的に豊饒化されてなくても、圏の大域的構造から足し算/引き算が定義できることもあります。例えば、双積*1があれば足し算を定義できます。
「ベクトルと言えば足し算」という気がしますが、足し算が必須でない状況もあります。F1(一元体)上の数学の関連で「足し算のない線形代数」という、なんだかワケワカンナイものがあります。例えば、シャイ・ハランのNon-Additive Geometryは足し算なし計算がベースです。
ダガー圏
ダガー圏の起源は、アブラムスキー(Samson Abramsky)達が強コンパクト閉圏(strongly compact closed category)という名で導入した構造です。「強」という修飾語があまりにひどいだろう、ということで、セリンガー(Peter Selinger)がダガー関手という概念を使って整理したのです。強コンパクト閉圏に代わる最近の呼び名はダガーコンパクト圏です。
アブラムスキーとセリンガー:
5,6年前の写真でしょうか、左がアブラムスキー、右がセリンガー(まん中はパナンガデン)です。
圏C上のダガー関手(あるいは単にダガー)とは、D:Cop→C という関手、つまり自己反変関手で、次の性質を持つものです。
- 対象の上では恒等(the identity on objects)、つまり A∈|C| ならば D(A) = A 。
- 対合的(involutive)、つまり D;D = IdC 。
行列の圏Matにおいて、行列の転置を考えるとダガー関手になっています。具体的には次のように関手 D:Mat→Mat を定義します。
- n∈|Mat|(|Mat| = N)に対して、D(n) = n
- A∈Mat(n, m) に対して、D(A) = At = (Aの転置行列)
このDが、対象の上で恒等で対合的な反変関手なのはすぐ分かります。
ダガー関手はダガー記号「†」を使って、D(f) = f† と書かれ、f†をfのダガー随伴(†-adjoint)と呼びます。ダガー記号を使ってダガー関手の性質を列挙してみると:
- A∈|C| ならば、A† = A
- (f;g)† = g†;f† (反変性)
- (idA)† = idA
- (f†)† = f†† = f
ダガー関手を備えた圏をダガー圏(dagger category)と呼びます。
ベクトルの内積
Cがスカラー対象Iを持ち、さらにダガー圏だとします。その構造を (C, I, (-)†) と書きましょう。
A∈|C| に対して、Aのベクトル v, w:I→A の内積 (v|w) を、
- (v|w) := <v†|w> = w;v†
として定義します。v†をfと書くと、
- (f†|w) := <f|w> = w;f
とも言えます。
ダガーによりベクトルとコベクトルは1:1に対応する*2ので、「コベクトルによるスカラー積 = 対応するベクトルによる内積」、「ベクトルによる内積 = 対応するコベクトルによるスカラー積」となっています。
1をスカラー対象とする行列の圏では、ベクトルとは1列だけの行列、コベクトルとは1行だけの行列です。ダガーは転置なので、行列の圏における内積の定義は、
- (v|w) := vtw
となります。これは、普通の「積の和」による内積公式を与えます。
α:A→A をAの自己射(変換)とすると、(v;α|w) = (v|w;α†) が成立します。等号の左右とも w;α†;v† になります。v;α を α(v) と書くと、(α(v)|w) = (v|α†(w)) という見慣れた随伴の公式になります。
正のスカラー
今の文脈では、スカラーとは s:I→I という射です。この定義からスカラーの正負を議論することはできません。スカラー系であるモノイド EndC(1) の部分モノイド(足し算があるなら部分半環)として正のスカラーを天下りに与えることはできますが、何らかの根拠を持って「正のスカラー」を定義できないでしょうか。
内積 (-|-) がある場合、ベクトルvの長さ(絶対値)は (v|v) で定義できます。そして、ベクトルの長さは正です。「ベクトルの長さとなっている量は正である」という常識を根拠として、スカラーが正であることを次のように定義してみます。
- スカラーsが正である。 ⇔ s = (v|v) となるベクトルvが存在する。
(v|v) = v;v† なので、正値性はダガー圏で定義可能な概念です。実際に正値性を応用するときは双積がないと苦しいですが、ともかくも天下りではない定義が可能です。注目すべきは、スカラーの正値性がスカラー系内部では定義できず*3、他の対象や射、圏論的演算(ここではダガー)との関係性で定義されていることです。「個物の特性を社会的関係性において捉える」という圏論的発想が使われています。
スカラー付きダガー圏
以上のことから、スカラー付きダガー圏は、内積ベクトル空間(ヒルベルト空間)の圏の性質の一部を再現できることが分かりました。ベクトルとは無縁と思える関係圏においても、関係 R⊆A×B の転置Rtを、(y, x)∈Rt ⇔ (x, y)∈R と定義すると、転置をダガーとするダガー圏になります。それに単元集合をスカラー対象に選ぶとスカラー付きダガー圏です。
ボブ・クックが指摘していた「関係圏Relと、有限次元ヒルベルト空間の圏FdHilbが似ている」根拠が、これで幾分かは(全部ではない)説明できます。他にも面白いスカラー付きダガー圏の例はあるかもしれませんよ。