ホモロジー/コホモロジーの文脈で、「複体」という言葉が出てくるのですが、この言葉は多義的でいくつもの意味があります。大げさな言い方をすると、「出てくるモノはなんでも『複体』と呼んでいる」ようです。
僕自身も混乱・困惑しましたし、コミュニケーションのときに非常に困ります。なんとかしたい。
内容:
なんでも「複体」
以前、「ド・ラーム・コホモロジーとホッジ分解のオモチャ (1/2)」という記事を書きました。このとき、「複体」という言葉の扱いにはだいぶ困り、悩みました。一応、「幾何複体」、「組み合わせ複体」、「代数的複体」と分けて説明してますが、明確とは言い難いですね。
下の図は、「複体にチェーン構成をして複体を作る」という話を口頭でしたときに使った説明図(?)です。
何種類かの概念をすべて「複体」と呼ぶので、こんなことになっています。この図はマジメな説明図ではなくて、まー「ネタ」ですけどね。
分類と整理
説明は後回しとして、とりあえず、「複体」と呼ばれるモノ(概念)を表にまとめます。
呼び名 | もとの概念 | 双対概念 |
---|---|---|
複体 その1 | {組み合わせ的}?形状圏 | {組み合わせ的}?余形状圏 |
複体 その2 | 複体的形状圏 | 余複体的余形状圏 |
複体 その3 | CのS的対象 | Cの余S的対象 |
複体 その4 | Mod[R]の複体的系列 | Mod[R]の余複体的余系列 |
「{組み合わせ的}?」と書いてあるのは、「組み合わせ的」は省略可能なことを示します。つまり、ちゃんと言えば「組み合わせ的形状圏」だけども、単に「形状圏」でもかまいません。「{…}?」のような書き方については「用語のバリエーション記述のための正規表現」を参照。
表に出現するCは任意の圏で、Sは形状圏(後述)です。Mod[R] は、可換環R上の加群の圏です。形容詞としての「複体的/余複体的」の意味は次のとおりです*1。
単に「複体」と言った場合、複体的系列/余複体的余系列を指す場合が一番多そうです。これらは次の別名を持ちます。
- 複体的系列: 鎖複体、チェーン複体、(単に)複体
- 余複体的余系列: 余鎖複体、コチェーン複体、余複体
上の表に出現した概念を、順に急ぎ足で説明していきます。
組み合わせ的形状圏とその双対
組み合わせ的形状圏の例には次のものがあります。
記号 | 別な記号 | 名称 | 参考 |
---|---|---|---|
S | Δ | 単体圏 | simplex category (nLab) |
C | 方体圏 | category of cubes (nLab) | |
G | 球体圏 | globe category (nLab) | |
Θ | テータ胞体圏 | Theta category (nLab) |
名称には、「☓☓☓圏〈☓☓☓ category〉」と「☓☓☓の圏〈category of ☓☓☓s〉」の二種類があります。「テータ胞体圏」は、"cell category", "category of cells" とも呼ばれますが、単に"cell"では紛らわしいので「テータ」を付けたほうがいいでしょう。
例に挙げた圏達は、なにかしら組み合わせ的フレーバーを持ち、直感的な意味で「図形の形」を表現しています。それで、組み合わせ的形状圏〈combinatorial shape category〉と総称します。
圏Cが、組み合わせ的形状圏である条件はどんなものでしょうか? 次のような特徴を備えていれば、組み合わせ的形状圏と呼んでよさそうです。
- Cは小さい圏で、Cの対象集合はZの区間(有限区間、半無限区間、無限区間=Z のどれでもよい)と同型である。整数 i に対応する対象を [i] と書くことにする。
- 射の有限集合 Fi⊆C([i], [i-1]) と、Di⊆C([i], [i+1]) が指定されていて、C は、合併集合 (Fi∪Di) (これは無限集合でもよい)で生成される。
- 生成元〈生成射〉のあいだの関係も具体的に書き下せる。
「具体的に書き下せる」が曖昧ですが、まーいいとしましょう。射の有限集合 Fi の要素を面作用素〈face operator〉、Di の要素を退化作用素〈degeneracy operator〉と呼びます。上の条件の2番目は、Cの射が面作用素と退化作用素の組み合わせから出来ている、ということです。
形状圏〈shape category | category of shapes〉は、関手の域〈domain〉になる圏という意味合いがあります。実際、例に挙げた組み合わせ的形状圏は、関手の域として使われます。関手の域としての用途を強調したいときは、単体形状圏、方体形状圏のような呼び方もします。
組み合わせ的形状圏に対して、その反対圏〈opposite category〉を作ると:
組み合わせ的形状圏の反対圏は「余」を付けて呼び、反対圏における面作用素を余面作用素〈coface operator〉、反対圏における退化作用素を余退化作用素〈codegeneracy operator〉と呼びます。例えば、単体圏の反対圏は余単体圏〈cosimplex category〉で、余単体圏は余面作用素と余退化作用素で生成されています。
複体的形状圏とその双対
組み合わせ的形状圏を単に形状圏〈shape category〉と略称します。形状圏Sに対して、整数の加法群で豊饒化〈enrichment〉をします。つまり、ホムセット S([n], [m]) からZ係数で自由生成した加法群 Z<S([n], [m])> を新しいホムセットとして圏を作ります。こうすると、射を足したり引いたりできるようになります。ホムセットを加法群に豊饒化した圏を、単に ZS で表します。
(整数として)隣り合う2つの対象 [n], [n-1] のあいだに ZS の射 ∂n∈ZS([n], [n-1]) が指定されていて、次が満たされるとき、形状圏 S と (∂n | [n]∈|S|) の組を複体的形状圏〈complex shape category〉と呼びましょう。
- For [n]∈|S|, ∂n∂n+1 = 0 on ZS([n+1], [n-1])
この条件を満たす ∂n を境界作用素〈boundary operator〉と呼びます。
例えば、単体形状圏 S = Δ の場合、面作用素 δni (i = 0, 1, ..., n)の交代和を作ると、それが境界作用素になります。
余形状圏(形状圏の反対圏)においては、dn∈ZSop([n], [n+1]) という射の族が次の条件を満たすとき、余形状圏 Sop と (dn | [n]∈|Sop|) の組を余複体的余形状圏〈complex shape category〉と呼びます。
- For [n]∈|Sop|, dndn-1 = 0 on ZSop([n-1], [n+1])
この条件を満たす dn を余境界作用素〈coboundary operator〉と呼びます。
S的対象の圏とその双対
形状圏Sは圏なので、そこからの関手を考えることができます。Cを任意の圏として、関手圏 [S, C] を考えます。この関手圏の対象、つまり関手 A:S→C を、CのS的対象〈S-object in C〉と呼びます。例えば、球体形状圏Gに対して、[G, Set] の対象は、SetのG的対象です。Setの対象は集合と呼ぶので「G的集合」、さらに噛み砕いて「球体的集合〈globular set〉」と呼びます。
CのS的対象の圏、つまり [S, C] を S.C とも書くことにします。この書き方と、対象の呼び名の例をいくつか挙げます。
CのS的対象 | 噛み砕いた呼び名 |
---|---|
S.Set の対象 | 単体的集合 |
S.Top の対象 | 単体的空間 |
S.CRng の対象 | 単体的可換環 |
C.Set の対象 | 方体的集合 |
G.VectR の対象 | 球体的実ベクトル空間 |
余形状圏Sopに関しても同様に考えます。[Sop, C] の対象はCの余S的対象〈coS-object in C〉です。
Cの余S的対象 | 噛み砕いた呼び名 |
---|---|
Sop.Set の対象 | 余単体的集合 |
Sop.Ab の対象 | 余単体的アーベル群 |
Sop.FinSet の対象 | 余単体的有限集合 |
Cop.Mod[R] の対象 | 余方体的R-加群 |
Gop.Man の対象 | 余球体的多様体 |
加群の複体的系列の圏とその双対
(Z, ≦) は、整数と普通の大小順序による順序集合とします。順序集合は圏とみなせるので、同じ記号で圏も表します。Cを任意の圏として、関手圏 [(Z, ≦)op, C] の対象をCの系列〈sequence in C〉と呼びます。関手圏 [(Z, ≦), C] の対象はCの余系列〈cosequence in C〉と呼ぶことにします。Cの系列の圏を Seq(C), 余系列の圏を CoSeq(C) と表しましょう。
A:(Z, ≦)op→C をCの系列だとすると、Aは、番号が減る向きの射 A(n)→A(n-1) in C の集まりとみなせます。余系列では番号が増える向きの射です。こう決めたのは他の用語との整合性のため(だけ)で、他の理由はありません。
Zの区間を J として、[J, C], [Jop, C] を考えることもできますが、ここでは、関手の域はZだけにします。Cが終対象と始対象を持つ圏ならば、系列/余系列の不要な(余分な)位置は終対象と始対象で埋めることにします。
A∈Seq(C) のとき、A(n) の代わりに An と書き、系列Aを A・ とも書きます。B∈CoSeq(C) のとき、B(n) の代わりに Bn と書き、余系列Bを B・ とも書きます。また、系列 A・ に対する A(n→n-1):An→An-1 を an:An→An-1 と、対応する小文字で書くことにします。余系列 B・ に対しては bn:Bn→Bn+1 です。
可換環Rに対して、Mod[R] はR-加群の圏とします。Mod[R] の系列 A・が複体的系列〈complex sequence〉だとは、次を満たすことです。
- For n∈Z, anan+1 = 0 : An+1→An-1
同様に、Mod[R] の余系列 B・が余複体的余系列〈cocomplex cosequence〉だとは、次を満たすことです。
- For n∈Z, bnbn-1 = 0 : Bn-1→Bn+1
通常は、複体的系列を鎖複体〈チェーン複体〉、余複体的余系列を余鎖複体〈コチェーン複体〉と呼びます。
胞体と幾何実現
Sを形状圏として、XはS的集合、つまり関手 X:S→Set だとします。Sの対象は整数でエンコードできるので、[n] と書くのでした。集合 X([n]) の要素を、Xのn次元胞体〈n-dimensional cell〉と呼びます。「胞体〈cell〉」は一般的な呼び名で、具体的な形状圏に応じて、「n次元単体」「n次元方体」「n次元球体」などと呼びます。
以上の意味でのn次元胞体は、単にnとラベルされた集合の要素なだけで、特に幾何的な意味でのn次元性は持っていません。幾何的意味が生まれるのは、S的集合を幾何的に“実現”した場合です。幾何実現〈geometric realization〉については、例えば次を参照してください。
S的集合Xを幾何実現した位相空間〈多面体空間〉を GR(X) とすると。Xのn次元胞体(単なる要素)は、位相空間 GR(X) の部分空間としての幾何的実体を持つようになります。「n次元胞体」の直感的な意味は、幾何実現のなかでのこの部分空間のことでしょう。
S的方法
なんらかのモノ、例えば多様体から、複体的系列〈鎖複体 | チェーン複体〉、余複体的余系列〈余鎖複体 | コチェーン複体〉を作るとき、形状圏Sまたは余形状圏Sopを使うならば、その作り方をS的方法と呼びます。単体的方法、方体的方法、球体的方法などです。単体的方法が一番よく使われている方法です。
例として、単体的方法による特異チェーン複体〈singular chain complex〉の作り方を簡単に説明します。Mを多様体とします(一般の位相空間でもかまいません)。標準幾何単体 σn = {x∈Rn+1 | xi ≧ 0 かつ x1 + ... + xn+1 = 1} からMへのなめらかな写像の全体を SSn(M) とします。
面作用素 δni:SSn(M)→SSn-1(M) と退化作用素 ιni:SSn(M)→SSn+1(M) がうまく定義できるので、SS・(M) = (SS・(M), δ・i, ι・i) は単体的集合になります。つまり、SS・(M)∈S.Set 。
集合から自由R-加群を作る関手を FreeModR:Set→Mod[R] とします。以下、FreeModR を F と略記します。F:Set→Mod[R] は、[S, Set]→[S, Mod[R]] を誘導するので、誘導された関手を S.F:S.Set→S.Mod[R] とします。S.F により、単体的集合 SS・(M) を単体的R-加群の圏に送ったものを SC・(M) とします。
SC・(M) は単体的R-加群であり、Sは複体的形状圏(境界作用素を持っている圏)だったので、Sの境界作用素∂の定義をR-加群の圏内で解釈すると、SC・(M) からチェーン複体〈R-加群の複体的系列〉が構成できます。これが、単体的方法によりMから作られたチェーン複体です。
S(単体形状圏)以外の形状圏でも、同様なS的方法でチェーン複体/コチェーン複体を構成できます。
おわりに
「分類と整理」の節に出した表には 4×2 = 8 個の欄があります。8個の欄に記入された概念は、どれも「複体」と呼ばれる可能性があります。そう呼ぶ習慣が現実にあるのは致し方ないですが、相互に関連はするが別な概念が8つあることを認識しておいたほうがいいでしょう。
[追記]
脚注に「「境界作用素を持つ」を表すうまい形容詞がなくて困りますね。」と書いたのですが、余境界作用素を微分作用素〈differential operator〉とも呼ぶので、微分複体〈differential complex〉で、余境界作用素を持つ加群の余系列の意味になります。余境界作用素が微分作用素なら、境界作用素は余微分作用素ということになります。
どうもシックリ来ませんね。その理由は:
ホモロジー/コホモロジーのもとになるモノだから、形容詞としての「ホモロジー」「コホモロジー」を付けてみると:
悪くはないかな。いずれにしても、一度ゴチャゴチャになってしまったものを、分類するのは難しい(現実的には不可能)ですな。
[/追記]
*1:[追記]最初、複体的=complical にしていましたが、"complical"はそういう意味ではないようですし、"complicial"(https://ncatlab.org/nlab/show/complicial+set 参照)と見間違うので、単なる"complex"に変更しました。「境界作用素を持つ」を表すうまい形容詞がなくて困りますね。[/追記]